ラベル 戦国、信長、秀吉、家康、関ヶ原、小早川秀秋、林羅山、歴史、映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 戦国、信長、秀吉、家康、関ヶ原、小早川秀秋、林羅山、歴史、映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年10月10日木曜日

目次

 異変 本能寺の変 三日天下 清洲会議 茶頭宗易 滝川一益 秀吉の懐柔策
 誘い水 北ノ庄城 宣伝力 毛利一族 家康立つ 腹の探り合い 情報戦
 小牧の戦 不機嫌な秀吉 信長転生 滝川一益の弁明 信長の幻 宗易の説得
 秀吉の術中にはまる 関白秀吉 茶の湯外交 悩む輝元 家康臣従 九州平定
 対外政策 聚楽第 茶々 後継者 それぞれの城 四面楚歌 小田原征伐
 戦わず勝つ 天下統一 利休隠居 信長と利休 暗殺計画 暗殺の時 辞世の句
 思春期 藤原惺窩 秀吉を呪う 名護屋城 文禄の役 無防備 秀吉落胆 休戦
 拾丸と秀次 繁栄の手本 小早川隆景の決意 秀次事件 事件の結末 秀秋の処分
 再び朝鮮出兵 出港 朝鮮上陸 秀吉の暴走 困難な救出 救援部隊 清正と秀秋
 対立 兵法 よみがえる悪夢 秀吉の威光 家康との対面 家康と三成 リーフデ号
 大谷吉継の行動 島津義弘 吉継、動く 秀秋の家臣 伏見城籠城 揺らぐ計画
 戦闘準備 決戦の地 主戦場 無血入城 三成と吉継の思い 落胆 合戦開始
 異様な戦闘 逃げ道 軍資金移動 陣羽織の意味 激突 逆転勝利 合戦の余韻
 領地復興 企みごと 学問の実証 毛利家へ 正成の計画 杉原重治 逃亡
 隠遁 春の訪れ 居場所 長嘯子 清原秀賢 問答 確執 前兆 菅得庵 キリシタン
 球形論争 妙貞問答 学問の限界 福の献身 道春 江戸 惺窩との再会 新たな道
 伴侶 易姓革命 秀頼と淀 淀の兵法 デウス号 方広寺梵鐘 知恵者 人心掌握術
 本当の泰平 豊臣家の誇り 法師武者 大坂城、集結 真相 真田家 和睦
 秀頼の本心 戦ふたたび 顔面蒼白 二つの牙 秀頼脱出 説得 武士の終焉
 自然の力 目覚めた龍 群書治要 神号論争 松平忠輝 日光改葬 黄金絵巻
 蚊帳の外 武士の知恵 明と暗 和子の入内 天皇と和子 道春の凶事 家光
 天下泰平の道 将軍、家光 家光の側近 貿易の暗雲 陽明門 戦の備え 江与の死
 復帰 皇子の死 天皇の譲位 私塾 秀忠の憂い 追号論争 家光の改革 弟の死
 目指す世 国書争論 家光の苦境 朝鮮への質問書 天草の予言 島原の乱
 東舟の死 火種 待望の日 大車輪 贈物 去りし者 明の滅亡 損益 疑惑の死
 喜びと哀しみ 家光の死 由井正雪 時の移り変わり 終焉


参考文献

 林羅山...堀 勇雄...吉川弘文館

 金吾とお呼び
  小早川秀秋心象紀行...永井 芳順(自費出版)

 異聞関ヶ原合戦...古川 薫...文藝春秋

 家康の天下取り
  関ヶ原・勝敗の研究...加来 耕三...日本経済新聞社

 小早川秀秋の悲劇..笹沢 左保...双葉社

 小早川金吾秀秋...江竜 喜信...叢文社

 さむらいウィリアム
  三浦按針の生きた時代...ジャイルズ・ミルトン...築地 誠子訳...原書房

 NHK歴史への招待第9巻
  太閤秀吉海外への夢...NHK編...日本放送出版協会

 NHK歴史への招待第10巻
  決戦関ヶ原...NHK編...日本放送出版協会

 決戦関ヶ原
  (戦国のもっとも長い日)...学研...学習研究社

 歴史読本戦国史シリーズ⑥
  天下分け目の関ヶ原...新人物往来社

 関ヶ原の役..旧参謀本部編纂...徳間書店

 豊臣政権の海外侵略と
  朝鮮義兵研究...貫井 正之...青木書店

 新釈老子...守屋 洋...PHP研究所


 参考サイト

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 http://ja.wikipedia.org/
 

 【Household Industries 歴史館】
 http://www.cyoueirou.com/_house/index.htm
 

 日本ロケット館
 http://www.bekkoame.ne.jp/%7Eyoichqge/index.html

2013年10月9日水曜日

終焉

 明暦二年(一六五六)

 一時は快方に向かっていた亀の容態が日増
しに悪化して、三月二日に息を引き取った。
 先立たれた道春の悲しみは深すぎた。その
ため、葬儀は春斎が喪主となり、亀の生前の
遺言により儒教の葬礼で行われた。そして、
上野の別邸の庭に葬られた。
 しばらくして、亀の看病で江戸に留まって
いた振らが京に戻った。
 道春は、春徳の家族と共に暮らしてはいた
が、亀という大きな存在がいなくなって、心
なしか広く静かになった邸宅で悲しみは増し
ていった。
 時々、春斎の家族がやって来て賑やかにな
ると、次第にもとの道春にかえり、前にも増
して勉学に打ち込んだ。そして八月には、十
四歳になった春斎の長男、春信と一緒に、江
戸城に登城して家綱に拝謁した。
 家綱もこの時はまだ十六歳で、春信とはあ
まり歳が離れていなかったこともあり、話し
相手が出来たことを喜んだ。しかし、補佐役
の保科正之は、家綱が高い教養を身につけ、
学問により天下を治める武士の手本としたかっ
た。そこで十二月に、あえて隠居の道春を呼
び、家綱に「大学」の講義をするよう命じた。
そして、道春の補佐をよくこなしている春徳
には、法眼の位を授けた。

 明暦三年(一六五七)

 江戸城で毎年恒例となった元旦の祝賀に道
春は、春斎と、この時初めての春徳を伴って
登城して家綱に拝謁した。
 こうして儒学者の親子三人が高い地位につ
くことは、清や朝鮮の歴史上でも稀で、蘇東
坡親子三人が老蘇、大蘇、小蘇と称されたの
に倣い、林家の親子三人は老林、仲林、叔林
と称された。
 三人の儒学者の知性あふれる姿により祝賀
を盛り上げることができ、道春にとって誇ら
しい日となった。
 この元旦の夜、江戸・四谷竹町のあたりで
火事が起き、その後も各地で火事が多発した。

 一月十七日に、家綱が紅葉山の東照宮に参
拝するのに道春も供をした。
 その夜、道春は疲れからか気分がすぐれな
かった。

 一月十八日

 今度は江戸・本郷で火の手があがり、町中
に広がった。この時、春斎の邸宅も類焼して
家屋は焼けたが、幸い書庫は焼け残った。
 一旦火の勢いは治まったが次の日、小石川
で再び火の手が上がった。
 これが大火となり、大名屋敷を焼き尽くし、
江戸城の本丸、二の丸までも焼き尽くした。
そして道春の神田にある本宅にも飛び火した。
この時、道春は本宅で「梁書」を読んでいた。
 炎は瞬く間に家屋を飲み込み、もうろうと
した道春は、この梁書一冊だけを持って外に
出た。
 そこに春徳が駆けつけた。
 さらに炎は、新たに移築した書庫にも向かっ
ていた。この書庫は耐火性に優れている倉の
ような建物で、火災には強いはずだが、炎は
容赦なく書庫にも燃え移ろうとしていた。
 道春の使用人らが、慌てて書庫に向かおう
としたが、春徳が叫んでそれを止めた。
「書物を持ち出してはならん。書庫は幕府か
ら火災に強いと言われ賜ったもの。その書庫
から書物を取り出したとあれば、幕府を信用
しておらぬことになる。必ず書物は残る。お
前たちが無理をして無駄死にしてはならん」
 春徳は、梁書一冊を握り締め気を失いかけ
た道春を、使用人の用意した輿に乗せ、上野
の別宅に逃げ延びた。
 この大火は、二十日になってようやく鎮火
した。その被害は、数万人にもおよぶ死者を
出し、後に「明暦の大火」と呼ばれた。
 すぐに春徳は、本宅の様子を見回って戻り、
道春に書庫が全焼し、書物もすべて焼けたこ
とを告げて悔し涙を流した。
「そうか、何もかも、すべて失ったか。しか
し、お前の判断は正しかった。ようやってく
れた」
 書物は春斎や春徳にも分け与えていたので、
すべてを失ったわけではないが、それでも道
春の落胆はひどく、火災の影響もあって、重
い病に倒れた。そして、一月二十三日に静か
に息を引き取った。

 道春の葬儀は、二十九日に儒教の葬礼で質
素に行われ、上野の別宅にある亀の眠る墓の
側に葬られた。

 水戸の徳川光圀は、道春の遺志を継ぐかの
ように、二月から「大日本史」の編集を始め
た。

 道春は幕府に対して、それほどの存在感は
なかった。しかし、春斎が道春の跡を継ぎ、
しばらくして、幕府から束髪を命じられた。
 これは、儒学者として幕府に仕官すること
を認められた証で、春斎は「大学頭」と称さ
れるようになり、道春を林家の始祖として、
その功績を世に広め、春徳と共に儒学を官学
とする道筋をつくった。

 こうして徳川幕府の本格的な治世が始まっ
た。

                      終わり

2013年10月8日火曜日

時の移り変わり

 承応二年(一六五三)四月

 春斎は、家光の三回忌に酒井忠勝の供をし
て日光山に登った。
 それより遅れて道春は、八月になって春徳、
人見友元らと共に登り、家光の霊廟を参拝し
た。
 道春は、老いた自分よりも若い家光が先に
逝くなど、想像もしていなかった。
 道春はしばらく拝んだ後、生前の家光を想
い、感慨深げにつぶやいた。
「権現様は、自然の理によって天下を治めら
れたが上様は、自然に苦しめられましたなぁ。
しかし、こうして天下は治まり、お若い家綱
様を良い家臣が補佐して、難局を乗り切って
おりますぞ。これは上様が基礎をしっかりと
築かれたおかげにございます。どうかこれか
らも天下泰平の世をお守りください」
 道春はまた、しばらく家光の霊廟を拝み続
けた。そして、名残惜しそうに日光山を下り
ると、下野の足利学校などを巡って江戸に戻っ
た。

 承応三年(一六五四)四月

 春徳に待望の長男、勝澄が産まれた。その
喜びを打ち消すかのように、しばらくして妻
の吉が亡くなり、春徳の子、一男二女は、道
春が引取り養育することになった。
 九月に、後光明天皇が病のため二十二歳の
若さで身まかられた。
 天皇が病にかかった時、この年に産まれた
ばかりの弟、識仁親王を養子に迎えていたが、
このような事態になるとは想像していなかっ
た。そこで、識仁親王が成長するまでの間、
やはり弟の花町宮が天皇に即位することになっ
た。
 花町宮は、十一月に即位し、後西天皇となっ
た。

 承応四年(一六五五年)

 年が明けてすぐに亀が病に倒れた。
 道春の代わりに春斎、春徳があらゆる手を
尽くして看病した。また、京から娘、振が子
を連れて駆けつけ、振の夫、荒川宗長と亀の
弟、荒川宗竹(宗長の父)も見舞いに駆けつ
けた。
 亀は気丈に振舞おうとしたが、病状は思わ
しくなかった。

 四月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「明暦」と決められた。
 家綱を補佐する体制は、保科正之のもとで
次第に統率がとれるようになってきた。
 溢れていた浪人の居場所も確保されて落ち
着き、武力での取り締まりは減っていった。
 それに代わって、法制度に従うように教育
する必要があり、学問が振興されたので、林
家と私塾の役割はさらに重要になった。
 道春は、幕府から書庫にうってつけの火災
に強い倉のような建物を賜り、神田の本宅に
移築することにした。これで私塾まで行くこ
となく、亀の看病をしながら勉学に励めるよ
うになったと喜んだ。

 十月には、家綱が征夷大将軍になったこと
を祝賀するため、朝鮮通信使、四百八十五人
が江戸に到着した。その三使には、正使・趙
コウ、副使・愈トウ、従事官・南龍翼がなっ
ていた。
 道春と春斎が、朝鮮から家綱に送られた朝
鮮国王、孝宗の国書を読みに江戸城に登城し
た時、三使は道春と会見した。
 三使は、江戸に来る途中の大坂で、道春が
書いた「五花堂記」を読んで感激したと褒め
称え、これまで多数の著書を出していること
に敬意を表した。
 その態度に、朝鮮では道春をよほど恐れて
いることが伺えた。
 道春は、三使に春斎を紹介し、跡継ぎであ
ることを伝えた。
 朝鮮国王からの国書への返書は、道春が起
草した。これと一緒に送られる保科正之、阿
部忠秋、井伊直孝、酒井忠勝、酒井忠清、松
平信綱の書簡は、春斎と春徳が分担して起草
した。
 その後、道春は春斎、春徳、春信を連れて、
三使の滞在している本誓寺に度々出向き、詩
などを交わして友好を深め、林家への評価を
高めることに努めた。
 三使にとっても、林家が幕府の窓口になれ
ば交渉がやり易い。
 こうしてお互いの利害が一致して成果を上
げることができ、三使はひと安心した。
 数日後、朝鮮通信使は名残を惜しみながら
戻っていった。
 道春らは、大役を務めたことで褒美が与え
られ、亀の容態に不安はあったが充実した一
年を終えた。

2013年10月7日月曜日

由井正雪

 由井正雪は、町人の子として生まれ、楠木
正成の子孫、楠木正辰の弟子として軍学を習
い、正辰の娘と結婚して婿養子になった。そ
して、名軍師として知られる張子房と諸葛孔
明から名をとった私塾の「張孔堂」を開き、
正辰の楠木流軍学を広めていた。
 その名声は高まり、諸大名や幕府からも仕
官の誘いがあったが、正雪は断り続け、張孔
堂に諸大名、旗本の子らを集めて門下生とし
ていた。
 その後、浪人が増え続け、幕府の仕官を断っ
てまで軍学を教えている正雪に共感し、ます
ます頼って来る者が多くなった。やがて、三
千人を超す一大勢力になっていった。
 そうした中での家光の死と、松平定政の幕
府に対する捨て身の批判とも受け取れる行動
が、正雪をつき動かした。
 正雪の呼びかけに応えて密かに集まった丸
橋忠弥、金井半兵衛、奥村八左衛門らが話し
合い、江戸の焼討ちを皮切りに、京、大坂な
どで決起することが決められた。これには、
天皇に幕府討伐の勅命を受けることまで綿密
に計画されていた。ところが、この中の一人、
奥村八左衛門は、幕府に内通していて計画の
すべてが幕府に伝えられていた。
 幕府は、七月二十二日に正雪が江戸を発つ
のを見計らって、丸橋忠弥を捕らえた。それ
を知らない正雪は、駿府に到着して、町年寄
の梅屋太郎右衛門の邸宅に泊まった。
 早朝、邸宅の周りには幕府の捕り方が囲み、
正雪は初めて計画が漏れていたことを知った。
「策士、策に溺れるとはこういうことだな。
計画は完璧だったが、人を信じすぎたか。ま
あよい。張子房、諸葛孔明にはなれなかった
が、町人の小僧が幕府を動かせたのだ」
 正雪はそう言うと、自刃して果てた。
 大坂にいた金井半兵衛も、正雪の死を伝え
られると、すぐに自刃した。
 こうして由井正雪の反乱はあっけなく終わっ
たが、張孔堂に残った門下生たちが、一斉に
この計画の顛末を世間に吹聴した。
 その反乱計画の中には、紀州の徳川頼宣が
加わっているとか、天皇の関与も噂されるよ
うなものだった。
 これが幕府にとって大きな痛手となった。
そして、この影響から八月に家綱が征夷大将
軍となる宣下の儀は、京ではなく江戸城で行
われた。
 道春は、家綱のために「大学倭字抄」「貞
観政要諺解」を作り、将軍宣下の儀では、宣
旨を奉じるなどした。これらの褒美に、知行
地を加増され九百十七石となった。

 慶安五年(一六五二)

 幕府は、尾張、紀伊、水戸の御三家を江戸
詰めとし、家綱を補佐するように命じた。そ
して、浪人対策として末期養子の法度を改め
ることにした。
 これまで大名、旗本が死亡した後での養子
縁組(末期養子)は認められていなかった。
そのため病気などで若くして突然、死亡した
ような止むを得ない事情でも、お家断絶とな
り、これが浪人を増やす原因だった。
 かつて、小早川秀詮が死亡したことで家臣
の平岡頼勝が養子縁組に奔走したが認められ
なかったのはこの法度があったからだ。
 そこで、五十歳未満の大名、旗本には、死
後でも養子縁組を許可することにした。
 それでも再び浪人の別木庄左衛門らが騒乱
を計画していることが分かり、この時も捕ら
えて未然に防ぐことは出来たが、さらに浪人
の処遇改善をする必要に迫られた。

 道春はこの頃、春斎の長男、春信の教育に
生きがいをみつけていた。
 七月には、春徳に次女、乙女が産まれ、に
ぎやかになった。
 九月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「承応」に改められた。

2013年10月6日日曜日

家光の死

 慶安四年(一六五一)二月

 所帯を持つことを拒んでいた春徳だったが、
長女、菊松が産まれ父親となった。
 それを知った徳川光圀から詩を賜るなど、
道春を喜ばせた。だが、その喜びもつかの間、
四月に家光が病に倒れ、後のことを重臣に託
して、静かに息を引取った。
 家光の後を追って、堀田正盛、阿部重次ら
が殉死した。
 家光から後を託された酒井忠勝、内藤忠重、
松平信綱、松平乗寿、永井尚政、阿部忠秋ら
は、家光の遺言に従い、十一歳の家綱を将軍
として、その補佐役に家光の異母弟、保科正
之を迎えることにした。
 これにともなって大奥がなくなり、側室ら
は出家した。そして、大半の女官も去っていっ
た。しかし、春日局の跡を引き継いだ万は留
まったので、家光の正室、孝子が強い権力を
握ることはできなかった。
 家光の遺骸は、上野の東叡山・寛永寺に移
され、葬儀が行われた後、五月六日に日光山・
輪王寺に葬られた。
 数日後、道春は江戸城に呼ばれた。そして、
酒井忠勝らと家光の追号について協議してい
た。そこに、京都所司代の板倉重宗から、家
光の埋葬が行われた同じ日に後水尾上皇が出
家したという知らせが入った。
 世間の誰もが、家光の死を悼んでの出家と
考えたが、後水尾上皇は徳川家を良く思って
いなかったことから道春は、これはありえな
いと思った。
 忠勝は道春に意見を求めた。
「上皇は、譲位なされた時も、誰にもお告げ
にならなかった。こたびも、周りの者は知ら
されておらぬということは不可解にございま
す。これは、幕府の言いなりにならぬという
だけではなく、いずれ混乱が起きる。それを
見越しての行いではないでしょうか」
「では、この機に乗じて何者かが騒動を起す
ということでしょうか」
「そうかもしれません。その時に上皇は『あ
ずかり知らぬ』ということにされるおつもり
かもしれません」
 忠勝が懸念していることを話した。
「今、巷には諸大名が改易などをされ、多く
の浪人が溢れ、治安が悪くなっております。
これらの者が徒党を組んで騒動を起せば、幕
府はもちこたえられぬかもしれません。早速、
監視を強化いたします」
「それが良いと思います」

 五月十七日に道春らは、日光山・輪王寺で
贈官位の式を行い、家光は大猷院となった。
 七月に入って道春は、三河・刈谷藩主の松
平定政に誘われて、その邸宅に出向いた。
 定政は家康の異父弟、松平定勝の子である。
 邸宅にはすでに、奏者番・増山正利、大番
頭・中根正成、大目付・宮城和甫(まさより)、
作事奉行・牧野成常、町奉行・石谷貞清といっ
た幕府の重責にある面々がいた。
 定政は、皆を一通りもてなして落ち着いた
ところで話し始めた。
「各々方に申したいことがある。わしは亡き
上様に多大なる恩を受けた。この後は、家綱
様に心を尽くして仕えたいと思っておる。し
かし、家綱様を補佐する者らを見るにつけ、
これでは遅かれ早かれ騒乱となるであろうと
察する。このこと、補佐する者らに伝えても
らいたい」
 そう言って、用意していた封書を差し出し
た。
 その封書は、井伊直孝、阿部忠秋宛になっ
ていた。
 この後、定政は、すぐに長男、定知を連れ
て、上野の東叡山・最教院に入り、剃髪して
出家した。そして、号を能登入道と名乗り、
僧侶の姿で江戸市中に物乞いに出て、大声で
叫んだ。
「松平能登入道に、物給え、物給え」
 それを聞いた者は、すぐに三河・刈谷藩主
の松平定政だと分かり、大騒ぎとなった。
 やがて幕府の知るところとなり、定政を捕
らえると、狂人扱いにして改易した。
 定政の奇行は、主君が改易されたことで、
居場所を失っていた浪人たちを刺激し、幕府
への不満が一気に高まった。その中心となっ
たのが、由井正雪の開いた軍学塾「張孔堂」
だった。

2013年10月5日土曜日

喜びと哀しみ

 ようやく大飢饉からの復興が進み、気がつ
くとまた、庶民の暮らしが派出になり始めて
いた。
 そこで家光は、質素倹約を徹底するように
取締りを強化した。

 慶安二年(一六四九)

 道春は隠居したといっても、重要な訴訟の
裁断には立会った。そして、それにもとづく
法度の施行にも加わった。
 そうしたなに不自由なく落ち着いた生活を
している中、六月になって木下長嘯子の死が
知らされた。
 道春は、長嘯子の風にたなびく草のような
生き方をうらやましく思っていた。
 戦国乱世に武士でありながら力はなく、豊
臣秀吉の縁者として命令されるがままに戦に
参加した。しかし、恨まれることもなく、家
康が天下を取れば、あっさりと武士を辞め歌
人となった。
 あえて質素な生活をしながら和歌や詩を作
り、大名や名立たる文人と交流して、歌仙と
まであだ名される一時代を築いた。
 そのおかげで道春もここまで生き延びられ
たと感謝していた。
 長嘯子は、歌人として影響力のある存在に
なっても、最後まで偉ぶることはなく野にあ
り、潔く去っていった。
 道春は、悲しみよりも清々しく感じていた。
(今ごろ兄上は、好きだった福に恋の歌でも
作っておるのだろう)
 長嘯子が多く作った恋の歌は、福(春日局)
に宛てたものだということは、道春以外に気
づく者はいなかった。

 しばらくして、春斎に長女、久が産まれ、
亀は初めての女子に喜んだ。
 十月になると、幕府に明の鄭成功が再び、
援軍の要請をしてきた。
 鄭成功は、父、鄭芝竜と日本女性との間に
産まれた。
 鄭芝竜が清に降伏した時、逃亡して今まで
反攻する機会をうかがっていたのだ。
 幕府には、もはや鄭成功の要請に応じる気
はなかった。だからといって、日本の血をひ
く者をあからさまに拒否して、もし清に影響
力を持つようになれば不利益になると考え、
日本からの物資を積み出すことは黙認した。
 この後、鄭成功がどうなったかは誰も知ら
なかったが、日本は朝鮮を介して清との交易
をすることになった。

 慶安三年(一六五〇)

 道春の四男、春徳は、予定していた「本朝
編年録」の文武天皇から桓武天皇までの起草
を終えて、その先の宇多天皇までをさらに起
草した。これを合わせた四十巻を家光に献上
した。
 道春は、立派に務めをこなした春徳に所帯
を持たせようと、以前から親交のあった水戸
の徳川光圀のもとに仕えていた伊藤友玄の娘
との縁談を春徳に話した。
「父上、私はまだまだ未熟者にございます。
妻をめとるなど、まだ早うございます」
「なにを申す。お前はもう二十七にもなる。
遅いぐらいじゃ」
「歳は関係ありません。人としてどうかとい
うことです」
「お前はもう立派に務めをこなしておる。妻
をめとれば、さらに力を発揮できるというも
のじゃ」
 納得しない春徳に亀が口を挟んだ。
「守勝。お相手はご立派な家柄の娘さんです。
こんな良いお話はまたとありませんよ。人と
の出会いというのは大切にしなければなりま
せん。私も良い出会いをしたから、お前とい
う立派な子宝に恵まれたのです。お前が所帯
を持ってくれたら、父も母も思い残すことは
ありません。お受けするか断るかは、会って
みてからでもよいのではないですか」
 会えば断れなくなることは、春徳には分かっ
ていたが、渋々承諾した。
 それから間もなく、春徳と伊藤友玄の娘と
の婚礼が行われた。
 八月には、春斎に次女、七が産まれ、二重
の喜びととなった。

2013年10月4日金曜日

疑惑の死

 秋になって十七歳になった道春の娘、振が、
亀の弟、荒川宗竹の子、宗長に嫁ぐことにな
り、振は京に旅立った。
 春斎は、東舟が住んでいた旧宅を貰いうけ
ることになった。
 守勝は、父や兄と同じように幕府に仕官す
ることになった。しかし、これまで守勝は髪
を切っておらず、仕官にも気が進まなかった。
「父上、私は今のまま、儒学を極めとうござ
います。仕官など、私の性に合いませぬ」
「それは分かっておる。できることなら、お
前の好きなようにさせてやりたい。しかし、
今はまだ天下泰平が磐石とは言えぬ。いつ動
乱が起きるか分からぬでは、お前の儒学を極
めたいという道も断たれよう。それを心配し
ての仕官なのじゃ」
 亀も心配そうに話した。
「父も母もいつまでお前を見守ってやれるか
わかりません。そなただけが気がかりなので
す。親孝行をすると思って、聞き分けてくれ
ぬか」
「そのように言われると嫌とは申せません。
しかし、父上や兄上のようになれるとは到底、
思えません。どうか過大な期待はおやめくだ
さい」
「分かった。分かった。よう決断してくれた。
それだけでわしは嬉しいぞ」
 道春と亀はほっとして喜んだ。そしてすぐ
に守勝を剃髪し、春徳という号を与えた。
 十二月末に、春徳は初めて江戸城に登城し、
家光に拝謁した。

 正保四年(一六四七)

 道春は、江戸城にほとんど登城することは
なくなり、子らが一人前になったので、近い
うちに春斎が東舟の住んでいた旧宅に引っ越
すのを機会に、自分の蔵書を分配して隠居す
ることにした。
 蔵書の中から、春斎には千部余り、春徳に
は七百部余りを分け与え、残りは春斎の子に
いずれ与えるようにと春斎に持って行かせた。

 その頃、大奥では家光の次男、亀松がわず
か四歳で死んだことで、色々な憶測が飛び交っ
ていた。
 正室、孝子にとって亀松がいたのでは、仮
に長男、家綱に子ができないとしても、自分
の影響力がある側室、夏の三男、長松に将軍
の座が巡ってくるのは程遠い。
 そこで孝子が亀松を暗殺したというのだ。
 当然、孝子は否定し、逆に春日局の後任と
なった万の謀略と非難合戦になっていた。
 これに家光は激怒し、亀松は病死として片
付けた。
 この後、側室の里佐が五男、鶴松を産んだ
ことで争いは治まっていった。
 里佐は、孝子の侍女として大奥に入り、家
光の側室となった。

 この年には、江戸で大地震があり、江戸城
の石垣や大名屋敷が倒壊するなどの被害が出
た。

 正保五年(一六四八)

 この年の二月に、元号が慶安と改められた。

 大奥の孝子派と万派の対立は、前年に産ま
れた鶴松の早世によって、再び慌ただしくなっ
た。
 孝子派の里佐が産んだ鶴松の死を万派は自
作自演と主張した。
「孝子が、次男、亀松の死を自分たちの仕業
ではないと思わせるために、あえて鶴松を暗
殺し、窮地にある三男、長松に将軍になる権
利を取り戻そうとしている」
 すると孝子派は万派の陰謀と主張した。
「万派は孝子が亀松を暗殺したと思っている。
その報復として鶴松を暗殺し、その上、孝子
を罪に落とし入れようとしている」
 こうしてどちらも言い訳や作り話の応酬を
して争いが深刻になっていった。
 これに対して家光は、主だった者を集めて
宣言した。
「すでにわしは家綱を世継ぎと決めておる。
その後のことは家綱が決めること。これ以上
争うのであれば、この後の世継ぎは御三家か
ら選ぶことにする」
 これには誰も異論を唱える者は出ず、よう
やく対立は治まった。
 このことがあって、大奥の組織化が一段と
進み、正室と側室が無用な対立を起さないよ
うに、産まれた子の育て方が取り決められて
いった。

2013年10月3日木曜日

損益

 正保二年(一六四五)

 大飢饉も峠を越し、民衆の暮らしも少しず
つ落ち着きを取り戻していた。しかし、家光
はなおも取締りを強化し、治安の維持と凶作
への備えを命じた。
 四月に、竹千代が元服して家綱と名を改め、
わずか五歳で正二位となった。これにともなっ
て、朝廷から東照大権現に宮号が与えられ、
日光東照社から日光東照宮となった。
 道春は六月に体調を崩し、もっぱら春斎が
道春の代わりをそつなく務めた。この働きで
春斎は、法眼の位を授けられた。
 法眼は、法印につぐ僧侶の位で道春の民部
卿法印と同じように、儒学者としてはまだ認
められていなかった。

 正保三年(一六四六)

 一月八日に、家光の側室、玉が四男となる
徳松を産んだ。
 玉は、春日局の跡を引き継ぎ大奥を取り仕
切っている万が、まだ伊勢・慶光院の院主を
していた頃から万に仕え、その後、春日局の
部屋子となっていた。
 万にとっては心強い味方の大手柄だった。
 幕府は、こうも違う側室から次々に男子が
産まれると世継ぎ問題になるのではないかと
不安がよぎった。
 それをよそに家光は、正月早々からめでた
いと喜んだ。
 道春は、まだ病が癒えず、床についての正
月となった。それを心配した松平信綱や酒井
忠勝が度々見舞いに訪れ、信綱の連れて来た
侍医数人の治療により、徐々に回復していっ
た。
 家光は、道春の病も心配だったが、兵法師
範の柳生宗矩が深刻な病となり、京の医者、
武田道安を呼ぶなどして治療にあらゆる手を
尽くした。しかしその甲斐もなく、三月にこ
の世を去った。

 八月

 肥前・長崎に、明の使者を名乗る黄微蘭、
陳必勝の二人が書簡を持ってやって来た。そ
の書簡はすぐに家光に届けられた。
 書簡に書かれていたのは、明の鄭芝竜から
の援軍要請だった。
 鄭芝竜は、以前、海賊だったが日本に帰順
して明と日本の貿易を仲立ちしていた。
 明はすでに滅んでいたが、鄭芝竜は皇帝と
逃れ、まだ抵抗運動をしているというのだ。
 家光は重臣を呼び、病の癒えた道春も呼ば
れた。
 援軍要請の対応を何度か協議したが結論が
出ず、徳川御三家のうち、紀伊・頼宣と水戸・
頼房も加わっての協議となった。
 家光は大飢饉を乗り切って自信をつけ、さ
らに復興を早めるために、援軍要請を大義名
分にして、明を再興させることで属国にする
いい機会と考えていた。しかし、豊臣秀吉が
朝鮮出兵を失敗していることが、これを慎重
にさせていた。
 唯一、この時のことを知っている道春は、
老いた声で冷静に損益を話した。
「もし出兵して清に勝利し、明の復興がなれ
ば、多大な利益になりましょう。しかし、そ
うなるまでにはかなりの時を要します。敗北
すれば、清だけではなく、朝鮮とも交易は出
来なくなるかもしれません。出兵しなければ、
清との友好を築き、交易が出来るようになる
かもしれません。仮に、清がこの国に攻めて
くるとしても、それまでにはまだ時があり、
防備を固めることは容易いと思われます。こ
うして考えると、出兵して得られる利益は運
任せ。出兵しなければ、その利益はこちらの
知恵任せとなります。今は、朝鮮との関係を
保ち、清がこの国に反感を抱かぬようにする
ことが大事と思います」
 こうした協議の最中、鄭芝竜が清に降伏し
たという知らせが届いたため、援軍の派遣は
中止となった。

2013年10月2日水曜日

明の滅亡

 寛永二十一年(一六四四)

 道春は、家光から国史の編修を命じられた。
 国史とは、神武天皇から始まる日本の歴史
を記していこうとするもので、徳川家を中心
とした武家社会の存在を強調するためのもの
だった。
 さっそく道春は、春斎に神武天皇から持統
天皇までを、守勝に文武天皇から桓武天皇ま
でを起草させることにした。
 この年、明を窮地に追い込んだ清の皇帝、
ホンタイジが病死し、六歳のフリンが跡を継
いで皇帝となった。しかし、その過程で混乱
が起き、それに乗じて農民が反乱を起こした。
 反乱を指導する李自成が、辛うじて存続し
ていた明の守る北京に侵攻して陥落させ、大
順を建国した。ところが清はすぐに大順を攻
め、これを滅ぼした。
 こうした最中に、明の使者が日本に援軍を
求めてやって来た。
 家光は、重臣を集めて協議したが、まだ大
飢饉から立ち直っておらず、国外に出兵させ
るだけの余力はないので、断るしかなかった。
 こうして、二百五十年以上続いた明も、こ
こに滅びた。
 家光は、あらためて天下泰平を持続させる
ことが困難な事業だと悟り、内政の問題解決
に専念することにした。

 五月には、家光の側室、夏が三男、長松を
産んだ。
 夏は町人の娘で、正室の孝子に付けられた
女官だった。
 役職にもついていたが、孝子に命じられ、
家光の入浴の世話をすることになり、そこで
家光の目に留まった。
 この年が家光の厄年にあたり、厄除けのた
め、夏は家光の姉、千のいる竹橋御殿で男子
を産み、秀忠の幼名、長松と名付けられた。
そのため家光は、千を長松の養母とした。
 孝子は、家光の長男の座を春日局に先を越
され、この長松には千が養母となったことで、
自分の影響力のある子が将軍候補から遠ざけ
られるという不運が続いた。

 この年の十月には、春斎が起草していた神
武天皇から持統天皇までの国史、四冊が出来
上がり、道春はこれを「本朝編年録」とし、
別に「本朝王代系図」の一冊をあわせて家光
に献上した。
 これにより春斎には、初めての年俸二百俵
を賜った。そして、十二月に次男、又四郎が
産まれた。
 この月、後光明天皇の即位により、元号が
改められることになった。
 これまで元号は、天皇と朝廷だけで決めら
れていたが、この時から幕府も加わり、道春
は幕府から助言を求められるようになった。
 幕府に朝廷から伝えられた新しい元号は「正
保」で、道春がこれに賛同して、元号が正保
と改まった。
 道春は、これまで崇伝がしていた徳川将軍
家の若君が元服した時の実名撰進も担当する
ことになり、家光の嫡男、竹千代の名を家綱
と撰進した。こうしたことは以後、林家が代々
関わるようになっていった。

2013年10月1日火曜日

去りし者

 亡くなった春日局の後任として、万が大奥
を取り仕切ることが決まった。
 万は、伊勢・慶光院の院主をしていた尼僧
だったが、家光の目に留まり、春日局の説得
を受けて俗世に戻り、しばらくは髪がのびる
のを待って大奥に入り、家光の側室となった。
 春日局から、もっとも信頼されていた。
 家光にも寵愛されていたが、子はなかった。
 正室の孝子は、家光に嫡男が生まれても、
権力争いを諦めてはいなかった。それは万が、
春日局と比べれば相手にし易いと思っていた
からだ。しかし、公家の六条有純の娘だと知
り、敵なのか味方に出来るのか推し量ってい
た。

 春日局の死で母親を失ったかのように落胆
した家光のもとに、太田資宗が道春らの作成
した諸家系図の検査を終えて持ってきた。
 表紙に「寛永諸家系図伝」と書かれ、漢字
本百八十六巻、仮名本百八十六巻の合計三百
七十二巻にもなっていた。
 家光は、その一つをゆっくりとめくりなが
ら、自分のもとに多くの者が仕え支えられて
いることを実感した。
「これが、わしを励ましてくれているようじゃ
な」
 家光はつぶやくように言って精気をとりも
どした。しかしそれもつかの間、今度は天海
が死んだという知らせが入った。
 天海は、家康に仕えて最後まで生き残り、
江戸を整備して繁栄する基礎を築いた。そし
て、政務にも深くかかわって、家康を神にま
で昇華させた。その怪僧を家光は尊敬してい
た。
 今の大飢饉は、天海の衰えと共にやって来
たのかと思わずにはいられなかった。

 京では、道春らが何も知らず、明正天皇の
退位と第四皇子、紹仁の後光明天皇の即位の
儀を静かに見守っていた。
 ようやく道春が江戸に戻ると、春日局、天
海の死と共に、東舟の子、永甫の死を知らさ
れた。
 このままでは東舟の家系が途絶えることに
なる。そこで、酒井忠勝と板倉重宗が、道春
の四男、守勝に東舟の跡継ぎとなるよう勧め
た。しかし守勝は、崇伝、天海がいなくなっ
て、林家に権力が集中するのは良くないと考
えこれを固辞した。
 この決断には道春も納得し、才能に目覚め
た守勝の成長を頼もしく思った。
 崇伝と天海を失った家光は、以前にも増し
て沢庵に助言を求めるようになった。しかし
沢庵は、政務について崇伝や天海のように深
くかかわることはしなかった。
 その沢庵は、家光の兵法師範、柳生宗矩を
介して道春を知り、親しく交流していた。
 しばらくして、道春が江戸城に登城すると、
家光が側室にしたまさが次男、亀松を産んだ
ことを知った。
 まさも春日局により大奥に入った女官だっ
た。
 家光は、春日局、天海を失った悲しさも癒
え、道春に次男誕生を嬉しそうに話した。

2013年9月30日月曜日

贈物

 寛永二十年(一六四三)

 大飢饉の真っ只中、朝鮮通信使の一行、四
百七十七人が、家光の嫡男、竹千代の誕生を
祝賀するためにやって来た。
 こうした理由でやって来るのには、明の崩
壊と金から国号を改めた清に、朝鮮も服属し
て政情不安になっていたことがある。
 それに比べ日本は、大飢饉で疲弊している
にもかかわらず、安定した政権を維持してい
ることから、その政治力に頼り、交流を深め
て後ろ盾にしようとする態度が明確だった。
 この時の三使は、正使・尹順之、副使・趙
絅、従事官・申濡だった。
 三使は家光に謁見して、竹千代誕生の祝辞
を書いた朝鮮国王、李宗の国書を渡した。
 それに対する返書を道春が起草して、元良
が清書した。
 その後、三使は日光東照社に参拝するなど
恒例になりつつあった行事を行った。
 今までと違っていたのは、三使が道春に贈
物を持って来ていたことだ。それは、前回やっ
て来た朝鮮通信使の話から、道春は鋭い質問
をする手強い人物だということが朝鮮政府に
知れ渡り、家光への影響力があると思われて
いたからだ。
 今回も、道春がどんな質問をしてくるか、
三使は恐れていた。しかし、道春は諸家系図
の作成が大詰めの時でもあり、それほどたい
した質問はしなかった。それを三使は、贈物
のおかげと勘違いして安心した。そのため、
春斎、守勝などとも和やかに交流して帰って
いった。

 八月になって、春斎に長男が誕生した。
 道春にとって初めての孫は、我が子とは違
う喜びがあった。
 諸家系図の作成も一通り終わって九月に入っ
た頃、明正天皇が譲位するという話しがあっ
た。
 家光から道春と春斎は、京に向かう酒井忠
勝、松平信綱に副使として同行するよう命じ
られた。
 後水尾天皇は突然、譲位して徳川家の血を
継ぐ、わずか七歳の長女、興子を明正天皇と
した。そして、後水尾上皇となって院政をお
こなっていた。
 明正天皇は、誰かに嫁ぐことも許されず、
子はいなかった。
 秀忠がいなくなり、大飢饉の世情不安を好
機とばかりに後水尾上皇は、明正天皇に譲位
させ、徳川家の血を排除する念願を果たそう
としていたのだ。
 家光には、これを阻止する気はなく、朝廷
との関係を改善して大飢饉を乗り切ることだ
けを考えていた。
 後継の天皇は、後水尾上皇と藤原光子の間
に生まれた第四皇子、紹仁と決まった。その
紹仁は、和子が養育しているので、徳川家の
影響力が完全になくなるわけではなかった。
 紹仁はまだ十歳で、粗暴なところはあった
が、学問が好きで、道春の師である藤原惺窩
の儒学を特に好んだ。そのため、副使の役目
を命じられた道春らに難題はなく、譲位の準
備を淡々とこなせばよい気楽な務めだった。

 道春が京に行っている間に、江戸では春日
局が死の床についていた。
 側では家光と孫の稲葉正則が必死の看病を
していた。
 春日局は稲葉正成に嫁ぎ、一時は主君、小
早川秀詮のもとを離れて没落しかけたが、そ
こから秀忠の正室、江与の懐妊と、その後の
嫡男、家光の誕生という幸運に恵まれた。
 やがて家光の乳母として、征夷大将軍にな
るのを助けた。そして長男、正勝の嫡男、正
則を相模・小田原の八万五千石の領主にする
こともできた。
 春日局自身も大奥を取り仕切るまでになっ
たのである。
 女性としては、豊臣秀吉に匹敵する大出世
だろう。
 今、お楽が家光の嫡男、竹千代を産むのを
見届け、その満足感に浸るように笑みを浮か
べて静かに息を引き取った。

2013年9月29日日曜日

大車輪

 寛永十九年(一六四二)

 これまで続いた凶作は、幕府にとって初め
ての大飢饉となった。
 民衆は田畑を売り、妻や子まで売って、そ
れでも飢えをしのぐことはできなかった。
 各地で餓死者が相次ぎ、さらに状況が悪く
なるという悪循環が起きていた。
 この凶作で、米相場が高騰したのを利用し
て不正を犯す役人や米を買占めて相場を混乱
させる商人が横行した。
 家光は、こうした不正を犯す者を処罰し、
倹約だけの方針を転換して、年貢などの制度
を改め、民衆救済の方策を次々に命じた。
 こうした中にも道春は、諸家系図の作成に
没頭した。
 各地の武家などから集まってきた膨大な家
系図を、崇伝の跡を引き継いだ金地院の僧侶、
元良や道春の私塾に書生として来ていた水戸
の人見卜幽、その甥、辻了的ら数十人が手伝
いに加わった。
 家系図は、徳川氏の一族である松平氏を初
めとして、松平氏が属する清和源氏から平氏、
藤原氏、諸氏、医者および茶道家等といった
順に分類された。
 家系図の中には、戦国の混乱にかこつけて、
名のある武将の家系図に組み入れるなど、偽っ
たと思われるものがあったが、道春はあまり
修正をせず編纂することにした。
 その理由として、早く作成することを優先
したこと。また、詳しく調べる検証方法もな
かったことがある。
 そもそも、徳川氏でさえ藤原氏から清和源
氏に改姓をしているため、偽った者を否定す
ることは出来なかった。そして、道春の中に
も林姓から木下姓、豊臣姓、小早川姓となり、
再び林姓となった複雑な家系で、今の自分が
存在していることを思えば、むしろ偽る者に
同情するほうが強かった。
 心のどこかで自分の存在を主張したかった
のかもしれない。
 作業のこうした粗雑さはあったが、諸家系
図が細かな個人履歴を網羅した、これまでに
ない貴重な記録書となることは間違いなかっ
た。
 道春はこれに加えて「本朝神代帝王系図」
「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」「織田信
長譜」「豊臣秀吉譜」といった、徳川幕府が
成立した以前の系譜を作成するように命じら
れていた。
 そこで道春は、三男、春斎に「本朝神代帝
王系図」「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」
「織田信長譜」を作成させ、十九歳になった
四男、守勝には「豊臣秀吉譜」を作成させる
ことにした。
 二人は道春に指導を受けながら、この年の
二月には書き上げることが出来た。
 その成果から、次に家光から命じられた「中
朝帝王譜」の作成では、春斎に上古から魏、
呉、蜀の三国時代を担当させ、守勝に晋朝か
ら明朝までを担当させて作成を任せた。
 二人の息子は道春の期待に応え、八月には
それらを完成させた。

2013年9月28日土曜日

待望の日

 寛永十八年(一六四一)

 この年も江戸では大火が起こり、大目付の
加々爪忠澄が死亡するなど、死者が三百人以
上にのぼる惨事から始まった。
 再建された江戸城・本丸に戻った家光は道
春を呼んだ。
 座敷には老中の太田資宗も呼ばれていた。
「道春、こたび、この資宗を奉行として大小
名、旗本、近習も含めた家系図集を作ろうと
思う。それを道春にも手伝ってもらいたい」
「ははっ」
 資宗は道春に一礼して言った。
「道春殿、この作業はこれまでにない大掛か
りなものとなりましょう。ご指導のほど、よ
ろしくお願い申し上げます」
「はい。こちらこそ、お願い申し上げます。
つきましては上様、我が愚息、春斎にも手伝
わせとうございますがよろしいでしょうか」
「それはよい。道春には良き後継者がおり、
うらやましいのぉ」
「はっ、恐れ入ります。ところでなぜ、家系
図集を」
「これは前々から考えておったことじゃ。権
現様の代より、大名に譜代、外様という区別
をしておったが、もはやそれは必要ない。わ
しは、全ての者を徳川のもとに集まった身内
だと思うておる。それを家系図集に記すこと
で形としたいのじゃ」
「ほぅ、それは良いお考えにございますな。
なるほど、皆とより絆を深めようとのお考え
にございましたか」
「そうじゃ。大変な作業になると思うが、資
宗と共によろしく頼んだぞ」
「ははっ」
 道春はさっそく、資宗と申し合わせ、全て
の武家にそれぞれの家系図を提出するように
求めた。
 こうしてこの壮大な作業が始まった。
 次に家光は、大詰めの仕事を完結させるた
め、平戸からオランダ商館長、フランソワ・
カロンを江戸城に呼んだ。
 オランダは、島原の乱で軍船を派遣して日
本に協力したが、キリシタンであることには
かわりなく、このまま平戸で交易を続けさせ
ることは出来ないと考えていた。そこで、長
崎の出島に移るように命じた。
 家光に謁見したカロンも、それを察してい
たのか素直に従い、引き続き交易の権利が得
られたことだけで満足した。
 これにより幕府は、外国との交易を完全に
掌握し、密航船の取締りを徹底することでキ
リシタンの流入を防ぎ、諸大名が勝手に力を
つけないよう管理し易くなった。しかし、点
在する孤島では、遭難船を装いやって来る密
航船と、これに人命救助と偽って密貿易をす
る商人がいた。そのため、交易を禁じられた
諸外国が、武力を使ってまで強く抗議するこ
とはなかった。

 一息ついていた家光のもとに、お楽が懐妊
したとの知らせが入った。
 お楽は、春日局の部屋子で、父は農民だっ
たが今は亡くなり、その後、母が古着商の七
沢清宗と再婚した。その店をお楽が手伝って
いた時、浅草参りに外出していた春日局の目
に留まって、大奥に入ることになったのだ。
 八月三日に、お楽は家光が待望していた男
子を産んだ。
 大喜びする家光を春日局がたしなめた。
「上様、まだまだ安心は出来ませぬぞ。病弱
な上様の血をひいておれば、これから幾度か
苦難もありましょう。気を引き締めて見守っ
てまいらねば」
「そ、そうじゃの。福、よろしく頼むぞ」
 冷静を装う春日局だったが、心では家光以
上に喜んでいた。
 生まれた子の名は家光の幼名で長生きした
家康の幼名でもある竹千代とした。
 江戸城内は喜びに湧き上がり、家光の側近
は盛大な祝賀を考えていた。しかし、家光は
凶作続きで財政も悪化していることを考慮し
て、質素な祝賀にするように命じた。
 威厳がついてきた家光の姿を側近は頼もし
く感じていた。

2013年9月27日金曜日

火種

 寛永十六年(一六三九)

 この年も凶作の影響が残り、家光は諸大名、
旗本にさらなる倹約を命じた。そして、キリ
シタンに影響力のあったポルトガルとの国交
を禁止して、海に面した諸藩には、不法入港
を監視するように命じた。また、ポルトガル
以外の許可を与えている外国船も、肥前・長
崎を唯一の入港先とした。
 このことで、外国との交易を収入源として
いた諸大名の中には不満と不信感がわき、家
光への信頼が失われてきた。それを払拭する
ため家光は、わずか二歳の長女、千代を尾張・
徳川義直の長男、光義に嫁がせて、義直との
絆を深め、後ろ盾とすることを決めた。
 これには、義直から私塾に先聖殿を寄進さ
れた道春が間をとりもった。
 千代を引き離された振は悲しみにくれ、病
弱だったこともあって寝込むことが多くなっ
た。
 そんな静まりかえった大奥で騒ぎが起きた。
 座敷や廊下の方々に煙がたちこめ、気づい
た女官らが「火事にございます、早くお逃げ
ください。火事にございます」と叫びながら
走り回った。
 煙は台所から上がり、炎は瞬く間に燃え広
がって、江戸城・本丸に飛び火して手がつけ
られない状態となった。
 大火はやがて本丸をすべて燃え尽くして鎮
火した。
 幸い、人への被害はたいしたことはなく、
少し前まで本丸の近くにあった富士見亭御文
庫は、紅葉山に移したばかりで、消失を運良
く免れた。
 家光は、すぐに火消しの制度を強化して、
浅野長直らを奉書火消役の専任とした。
 この頃、各地で火災が相次ぎ、貴重な書物
を預かっている道春としても気がめいる毎日
だった。
 そうした時、道春が以前から親しくしてい
た倉橋至政の娘と三男、春斎の縁談が持ち上
がった。
 倉橋至政の父、政範は御賄奉行をしていた。
 道春は、さっそく亀と相談し、十一月十五
日に婚礼をとり行った。

 寛永十七年(一六四〇)

 家光は、消失した江戸城・本丸が再建され
るまで西の丸に移っていた。
 この年は、家康の二十五回忌にあたるため、
家光は日光東照社に参拝した。これに道春も
同行してこの時の様子を「斎会の記」にまと
めた。
 江戸に戻って来た家光が政務に励んでいる
と、大奥から「寝込んでいた振の容態が悪化
した」との知らせがあった。
 家光がすぐに駆けつけると、振はすでに虫
の息で、昏睡状態のまま、しばらくして亡く
なった。
 家光は愕然とし、振から千代を引き離した
ことを後悔した。しかし、自分の病弱な身体
のことを考えれば、ここで立ち止まってはい
られない。なんとしても後継者を誕生させな
ければとの思いを強くした。
 家光の女の好みを一番よく知っていたのは
春日局で、だからこそ町で見かけた家光好み
の娘を次々と部屋子にして女官に仕立てたの
だ。そして、家光が大奥に来るのにあわせて、
女官をそれとなく目に留まる場所で働かせた。
 亡くなった振もそうして目に留まり側室と
なった一人だった。
 春日局には、家光の後継者を誕生させなけ
ればいけないという使命と、幕府からの期待
が重くのしかかっていた。しかしそれは、春
日局の権力を強めているだけと危惧する者も
いた。
 正室である孝子もそう感じていた。
 孝子は、すでに家光との関係は遠ざかって
いたが、公家である鷹司家の代表として、徳
川家に強い影響力を保つことを唯一の生きる
糧にしていた。また、春日局が公家の三条西
家と縁戚関係にあったことも、さらに対抗意
識を燃え上がらせた。そこで、自分の側に仕
える女官を家光に近づけるように仕向けた。
 これに春日局が口出しすることは出来ず、
いつしか水面下での公家を代理する静かな権
力争いが起こっていた。
 そうとは知らない家光は、好みの女官が目
に留まると、次々に呼んで夜を共にした。

2013年9月26日木曜日

東舟の死

 寛永十五年(一六三八)八月

 突然、東舟が病に倒れ、道春が駆けつけた
が、すでに息を引取った後だった。
 東舟は、道春よりも儒者としての才覚はあっ
たが、仮の弟になり、よく我慢して道春を補
佐した。
 道春を今の地位まで高めることに尽力した
東舟の死に顔は、満足そうだった。
「私がいなければ儒者としてもっと大成した
であろうに。すまん」
 そう言って肩を落とす道春に、側にいた東
舟の子、永甫が声をかけた。
「伯父上がおられたからこそ、父上はここま
でやってこられたのです。生前、父上はいつ
も申しておりました。『自分のような町人が、
大御所様や上様のお側に仕えることが出来る
など、夢のようじゃ。これはすべて兄上のお
かげ。お前も伯父上を見習ろうて励め』と」
「そうか、そのようなことを」
 道春は、慶長七年(一六〇二)に、京の町
家、林吉勝の屋敷で東舟と初めて会った時の
ことを思い出していた。
 東舟の言葉が、脳裏にこだました。
「兄上様は、藤原惺窩先生をはじめ、公家の
方々からも指南を受け多くの兵や領民を指揮
し、学問を実践されたと聞いております。そ
の成果は目覚しく、領地を復興させることも
叶ったとか。そのことを、私はうらやましく
思っています。私の家は貧しく、建仁寺で学
問を学びました。最近知ったのですが、稲葉
様のご援助があったようです。しかし、それ
でも思うようには多くを学ぶことができず、
鬱々とした日々を暮らしておりました。この
ようなことを話しますのは、兄上様に、私の
人生をお譲りするにあたり、私のこれまでを
知っておいてほしいと思ったからです。これ
が、町人というものです。これから不自由に
思われることがあるかもしれませんが、耐え
忍び、町人の心持で、信勝を生かしていただ
ければ幸いです」
 道春は、まっすぐな目ではっきりとものを
言う若き東舟を思い出して苦笑いし、涙が溢
れてくるのもこらえず泣いた。
 東舟の葬儀は、儒教の礼により執り行われ、
遺骸は、道春の私塾の先聖殿・北隅に葬られ
た。そして、東舟の跡を永甫が継いだ。
 永甫は、道春の三男、春斎と一緒に、道春
の補佐をして評定にも加わるようになった。
 この頃、家光は、家康が自分と同じように、
病弱な身体を薬草により体質改善して長生き
したことに見習い、品川と牛込に薬園を造る
ことを命じた。そして、道春をその指南役と
した。
 道春は、方々から和漢の薬草が集められる
と、効能ごとに分類し記録していった。

2013年9月25日水曜日

島原の乱

 寛永十五年(一六三八)

 反乱軍が籠城した原城は、三方が海に面し
た崖で、陸からは攻めにくい。しかし板倉重
昌は、松平信網が加勢にやって来ることを知
ると、これ以上てこずっていてはキリシタン
を擁護していると疑われ、処罰されるのでは
ないかと恐れた。
 そこで無謀な城攻めを決行した。
 それほど、幕府はキリシタンに対して、徹
底した排除を行っていたのである。
 反乱軍は重昌の部隊が攻撃してくると、鉄
砲や弓矢で応戦し、城に近づく将兵には熱湯
や大石で応戦した。それでも後には引けない
重昌は、強引に城に突っ込み、討ち死にして
敗北した。
 この勝利に反乱軍は、益田四郎のもとに結
束を強めた。
 その時、ほどなく加勢にやって来た松平信
網、戸田氏鉄の幕府軍は、十二万人の大軍と
大砲を装備していた。また、幕府はオランダ
にも軍船の派遣を依頼し、海からの攻撃も開
始された。
 オランダが参戦したのは、宗教よりも日本
との交易を優先し、ポルトガルを日本から排
除することで、交易の独占を狙っていたから
だ。
 海と陸からの大砲による砲撃で反乱軍は次
第に劣勢になった。それでも、幕府軍は降伏
を呼びかける気はなく、全滅するまで攻撃の
手を緩めなかった。
 しばらくして、城内から物音一つたたなく
なって戦いは終わった。
 破壊された原城には、女、子、老人を含め
て三万人以上の死体が横たわり、その中に益
田四郎の死体もあった。
 その後、反乱の責任を問われた島原藩主の
松倉重治は斬罪になり、天草藩主の寺沢堅高
は自刃した。
 この反乱以降、表立ってキリシタンを名乗
る者はいなくなり、隠れキリシタンは孤島に
逃れて細々と暮らすのみとなった。
 もとはといえば、凶作と藩主の失政による
反乱だったが、反乱軍がキリシタンの救世主
のように益田四郎を祭り上げたことが、幕府
のキリシタン弾圧を正当化させる結果となっ
た。
 家光は、この反乱を教訓として武家諸法度
を一部訂正し、将軍に反逆する者があれば、
幕府の許可を得ることなく、近隣の諸大名と
協力して鎮圧できるようにした。また、領国
が疲弊していることにも配慮して、商船に限っ
ては、五百石積以上の大型船の建造を許すこ
とにして、物資の輸送が円滑になるように整
備した。
 家光は、征夷大将軍になって最大の難局を
乗り越えたことで自信を深め、幕府の組織改
革も一気に押し進めた。

2013年9月24日火曜日

天草の予言

 寛永十四年(一六三七)

 家光は激務から体調を崩し、病の床につい
て年の初めを迎えた。
 道春は昼夜、家光のもとにあって漢方薬の
書を調べ、薬剤の手配を指示した。
 そのかいあって家光の体調は次第に回復し
ていった。
 そこで、家光は予定していた江戸城・本丸
の改修を諸大名に命じた。
 この年は、そんな波乱の幕開けだったが、
家光には嬉しいことがあった。
 側室にした振が子を身ごもっていたのだ。
 振は、春日局の養女となり、部屋子として
奥御殿に入り、女中奉公をしていた。それを
家光が目に留め、側室としていたのだ。
 三十四歳にして始めての子が誕生すること
に、家光より家臣たちが沸き立った。
 奥御殿のことは、家光に近い家臣でさえ秘
密とされ、側室がいるなど思っても見なかっ
たからだ。
 世間でも家光は、女嫌いと噂されていた。
そのため、家光を女嫌いに育てた春日局が、
奥御殿を取り仕切ることをいぶかしがる者も
いたぐらいだ。

 閏三月

 振は女子を産み、千代と名付けられた。
 嫡男ではなかったことに、家光はがっかり
したが、家臣たちは次に期待が持てると喜ん
でいた。そしてこれを機に、奥御殿は大奥と
して整備されることになった。
 ほとんどの者が、側室となった振が春日局
の養女だとは知らされていなかった。
 家光は、江戸城にあった家康の霊廟を、二
の丸の側に移転するよう命じた。
 するとその場所に、以前から飼っていた、
二羽の鶴が舞い下り、再び東に飛び立った。
 この話を聞いた家光は、吉兆と喜んだ。し
かしそれもつかの間、家光は再び、熱を出し
て寝込んでしまった。
 すぐに道春、東舟が侍医らと協議して、看
病に奔走した。
 こうした中、さらに家光を悩ませる問題が
南で起きていた。

 肥前・島原半島は、異常な天候が長年続き、
凶作に民衆が疲弊していた。
 それにもかかわらず、島原藩主、松倉勝家
が行う年貢の取立てはきびしかった。
 この地には、豊臣秀吉の代からの領主だっ
た有馬晴信の家臣が、今は農民となっていた。
その者たちが、怒りを募らせていた民衆を扇
動して、反乱軍を組織し、藩邸を襲って蜂起
したのだ。
 これを知った肥後・天草諸島でも、秀忠、
家光によって諸大名が改易されたあおりで浪
人となっていた者たちが、民衆を扇動して蜂
起した。この時、総大将を十六歳の益田四郎
とした。
 益田四郎が総大将になったのには、先の元
和二年(一六一六)に国外追放になったママ
コス神父の予言にわけがある。
「いずれ天下に幼子一人が誕生する。その幼
子は習わずして諸学を極めている。やがて幼
子が若者となった頃、天変地異があり、その
若者は民衆とクルスを掲げて立ち上がるだろ
う」
 この予言にあるように異常気象となり、神
童と噂されていた四郎の存在が符合していた
のだ。
 天草の反乱軍は、四郎を「天草四郎」と祭
り上げ、富岡城や本渡城を攻撃した。それも
つかの間、近隣の諸藩から幕府の応援軍が到
着したので撤退した。
 止むを得ず反乱軍は、島原半島に向かい、
島原の反乱軍と合流した。そして、廃城となっ
ていた原城を砦として籠城した。
 これを知った家光は、病の癒えない自分の
代わりに、板倉重昌を反乱の鎮圧に向かわせ
た。
 重昌は、九州の諸大名に原城の包囲を指示
したが、幕府の年貢の取立ての厳しさやキリ
シタン弾圧に同情する大名もあり、気勢はあ
がらなかった。そのため、打つ手がなく時間
を浪費していた。
 なかなか鎮圧したとの知らせがないことに
業を煮やした家光は、老中の松平信網、戸田
氏鉄に加勢するように命じた。
 一部の民衆による反乱が、大坂の合戦以来
の大きな戦になろうとしていた。

2013年9月23日月曜日

朝鮮への質問書

 道春は宗義成を通じて、三使に質問書を出
した。その質問では、儒学に関することの他
に、朝鮮の歴史に疑問を投げかけることを問
いただしていた。
「朝鮮の始祖である檀君が、国を統治したの
は千年余りといわれるが、そんなに長生きだっ
たのか。檀君の後を継承したといわれる子孫
については、明の古い書物に記されているが、
檀君については何も記されていないのはなぜ
か。そのような歴史は作り話ではないのか。
それから、明が殷といわれた時代に周を建国
した武王との争いに敗れ、殷の箕子が朝鮮に
逃れ、王となったと伝わるが、箕子が朝鮮に
来た時、その従者は五千人いた。殷の人、五
千人について明の古い書物には記されていな
い。これを書いた書物があるのか教えてもら
いたい」
 これに対して三使は、自分たちの歴史に言
いがかりをつける非礼な道春に憤慨しながら
も、答えられることには返答をした。
 さらに道春は、随員の文弘績に朝鮮の官位、
衣冠など国の組織について、また食事など生
活について問いただした。
 その最後の質問に「朝鮮では争いがあり、
前の国王、光海君が敗れ今の国王、仁祖になっ
たが、光海君は今どうされているのか」と聞
いた。
 光海君は秀忠の代には国王だったが、家光
が征夷大将軍になる間に、今の国王、仁祖に
追いやられていたのだ。
 これに対して文弘績は、王室のことは恐れ
多いとして語るのを拒んだ。
 東舟も他の朝鮮人たちに筆談で色々くどい
ぐらいに聞いてまわった。
 そうした道春と東舟のぶしつけな質問で、
朝鮮通信使が不快になっていることを聞いた
家光は、多くの家臣や朝鮮通信使のいる中、
道春を呼んだ。
「道春。そなたと東舟の質問は、あまり役に
立つものがない。私が知りたいのは、朝鮮で
の治世の方法や仁義忠信といった心得につい
てだ。通信使の方々に教えを乞う気持ちを忘
れてはならんぞ。よいな」
「ははっ」
 これで朝鮮通信使の不快は和らぎ、家光へ
の信頼は増した。
 しばらくして、朝鮮通信使は朝鮮と日本の
絆を深めることを約束して朝鮮へ戻っていっ
た。
 すぐに家光は、道春と東舟を呼んで、道春
に探らせていた朝鮮の内情を聞いた。
「こたびの通信使は、三使よりも従者である
訳官の洪喜男のほうが位が上にございます。
以前はこのように身分を違えることはありま
せんでした。これはやはり、朝鮮で政変があっ
たと見るべきでしょう。私と東舟の非礼な問
いにも、怒りはしますが、それ以上、事を荒
立てる様子はございませんでした。いちいち
上様におもねるような態度は、何かを欲しがっ
ているように感じました。こたびの渡来は、
上様に頼み事があったのではないでしょうか」
 家光がいぶかしげに言った。
「朝鮮は、明と金の争いの狭間でどちらにつ
くにしても国情は荒れる。だから、いざとい
う時のために、この国を後ろ盾にするつもり
だろうか」
「上様のご明察のとおりと思われます」
「しかし、今のこの国では朝鮮を手助けする
ことは出来ん。どうすればよいか」
「そこなのです。本当に困っていれば、こた
びは是が非でも上様に頼ったでしょう。それ
をしなかったということは、まだ余裕がある
のかもしれません」
「もしそうなら、こちらも今のうちに備えを
整えておかねばならんな」
「はい」
 家光はすぐ家臣らに命じて、食糧の安定を
図り、相模、箱根に関所を設けて人の移動を
制限した。そして、前々からポルトガル人を
肥前・長崎に造った出島に住まわせるように
命じていたのを急がせた。
 こうして国内の管理体制を整えさせた。

2013年9月22日日曜日

家光の苦境

 寛永十三年(一六三六)

 この年は暴風雨から始まった。
 思えば家光の代になって、悪天候により農
作物が育たない年が続いている。そのたびに
家光は質素倹約を呼びかけ、諸大名が自ら、
庶民の手本となるように命じた。また農民に
は、年貢を減らし猶予なども行った。しかし、
それでも間に合わず、幕府の貯蓄米を放出す
る事態となった。
 この頃、銅銭は諸大名が自由に鋳造するこ
とができた。そのため銅銭の価値が下がり、
物の流通にも悪影響が出ていた。それがさら
に庶民の暮らしを悪化させていた。
 そこで家光は、江戸・芝と近江・坂本だけ
で新たな銅銭「寛永通宝」を鋳造し、諸大名
には銅銭の鋳造を禁止して、寛永通宝を買い
取らせることで銅銭の統一を図った。
 またこの年は、日光東照社に家康の遺骸が
久能山から改葬されて二十年にあたることか
ら、その遷宮のため、幕府がすべての費用を
支払って大規模な造り替えを行った。
 これも困窮した庶民の救済となった。
 こうした状況の中、朝鮮から通信使がやっ
て来ることになった。
 これまでは、征夷大将軍が代わったことを
祝賀するために来ていたが、今度は泰平になっ
たことを祝賀するためとの理由だった。
 家光は、先の国書改ざんのこともあったの
で道春を呼んだ。
「上様、通信使の来訪とは、急なことにござ
いますな」
「そうなのだ。対馬の義成が失態を償うため
に取り計らったのだろうが、朝鮮がなぜ来る
気になったのだろうか」
「もしや、明が衰退しておるのと関係がある
かもしれません」
「明の衰退」
「はい、明は、金という新たな国と戦となり、
国力が衰えております。噂では、朝鮮にも金
が圧力をかけておるように聞きます」
「そのようなこと、なぜ、今まで黙っておっ
た」
「申し訳ございません。まだ確かなことが分
かっておらぬゆえ、お耳に入れては政務にさ
しさわりがあると思ったのです」
「まったく、余計な気をまわすでない。とこ
ろで『国王』と改ざんしたことはどうすれば
よい」
「はっ、それにつきましては、今後『大君』
を使うのがよろしいかと」
「大君か」
「はい、大君ならば、朝鮮は国王と同格か、
変更したことで位が上がったと受け取りましょ
う。わが国では、大君とは主君のことであり、
帝をないがしろにしていることにはなりませ
ん」
「おお、それはよい。あとは朝鮮の内情を探
るしかないな」
「ははっ」
 家光は道春と、朝鮮通信使が来た時の対応
方法を練り、準備を進めた。

 朝鮮通信使の一行、四百七十八人は、十二
月に江戸へ到着した。その三使には正使・任
絖、副使・金世濂、従事官・黄カンがなって
いた。
 朝鮮からの国書には、事前に知らせていた
ように「日本国大君殿下」と宛名が記されて
いた。それに対する返書は、すべて道春が起
草した。そして、今は亡き崇伝の後継者となっ
た僧侶、元良が清書した。
 日本の朝鮮への対応は、これまでとは違い
強気だった。
 日本の使節が朝鮮に行った時、堂上の大使
を前に庭で拝礼をしていたので、家光にも朝
鮮通信使が前の庭で拝礼するか、家光が椅子
に座り、その前で拝礼するように求めた。
 これに対し、正使の任絖が「非礼であり、
豊臣秀吉の悪しき治世を思い起こさせる」と
激怒した。
 そこで、家光が譲歩して、これまで通りの
拝礼とした。
 朝鮮通信使を連れて来た対馬藩主、宗義成
は、家光の面目を保とうと、三使に日光東照
社に参拝するように促した。
 朝鮮通信使は、泰平の祝賀での来日であり、
日光東照社がその礎を築いた家康の霊廟だと
いうこともあってこれに応じた。

2013年9月21日土曜日

国書争論

 寛永十二年(一六三五)

 林家が江戸で始めての正月を迎えた。
 道春の家族に加え、東舟の家族もそろった。
 東舟は、二人の子をもうけたが、長男は早
くに亡くなり、春斎と同い年の次男、永甫が
儒学を志していた。
 十二歳になった道春の四男、右兵衛は、名
を守勝と改め、三歳の頃にはまだ歩くことが
できず心配していたが、普通の子に育ち、無
邪気に遊んで場を和ませて、この日の主役と
なった。
 三月に対馬藩主、宗義成の家老、柳川調興
から、幕府に訴えがあった。
 それは、義成の父、義智の代から、「幕府
と朝鮮とのやり取りをした国書を改ざんして
いる」というものだった。
 そのことも問題だったが、家臣が主君を訴
えるということも、忠義を重んじる幕府の方
針に逆らうものとして問題になった。そこで、
江戸城に義成と調興を呼んで争論させ、その
上で家光が裁断することになった。
 争論の前日、家光は、主だった重臣と道春
を呼び協議した。
 過去、朝鮮に送った国書は、崇伝が起草し
「日本国源秀忠」あるいは「日本国主」と記
名する慣わしだった。それを義智、義成が「日
本国王源秀忠」「日本国王」と国王の認めた
国書のように改ざんしたのだ。
 家光は、このことについて道春に意見を求
めた。
「国王とは帝であり、朝鮮では、今まで送っ
た国書はすべて帝の言葉、あるいは、徳川家
が帝の家系になったと受け取りましょう。も
し、へりくだった文章を書いていたとすれば、
朝鮮はこの国をさげすんでみているかもしれ
ません。しかし、いまさら訂正するわけには
まいりません」
「宗家が余計なことを」
「上様、お恐れながら、義成殿は亡き父、義
智殿に倣うしかなく、宗家はこの国と朝鮮の
対面を保とうとしたのです。原文の国書のよ
うに国王ではなく国王の家臣からの書簡とし
ていたのでは朝鮮は重要なものとは思わず、
あるいは受け取らなかったかもしれません。
それを考えれば止むを得なかったと思われま
す」
「それは分かる。しかし、今後をどうするか
だ。まあそれは後々のこと。問題は調興だが、
家老とはいえ、これは進言とは言えぬ。己が
主君に取って代わろうとする魂胆が見え透い
ておる。それに、私を甘く見ているようにも
思える。皆はどうじゃ」
 皆、相槌を打ち、調興を処罰することが決
められた。

 次の日

 江戸にいた諸大名が、すべて江戸城の大広
間に集められた。そして、家光の前で、宗義
成と柳川調興がそれぞれの言い分を述べ合っ
た。
 二人が言い尽くしたところで、家光が静か
に話し始めた。
「調興が言うように、宗家のしたことは許さ
れざることだ。しかし、義成は今は亡き父、
義智から引継いで間がなく、『日本国王源秀
忠』『日本国王』と書くことはもはや慣習と
なり、それに従うしかなかったであろう。本
来、義智を正さねばならなかったのは家臣で
ある調興、そなたらではないか。誠の忠義を
はきち違え、己の利のためにその罪を主君に
なすりつけるとは不らちである。よって、義
成を赦免とし、調興と改ざんに直接かかわっ
た者らを罰する。罰は追って沙汰する。以上
じゃ」
 しばらくして、調興は津軽に配流となり、
国書の改ざんに関わった僧侶、規伯玄方は陸
中・南部藩に配流、家老の島川内匠と調興の
家臣、松尾智保は斬罪となった。
 こうした争い事が増え、その処理にあたっ
ていた稲葉正勝が亡くなって以降、家光を煩
わせることが多くなった。また、江戸から離
れた地域の内情を把握する必要があるため、
武家諸法度の見直しをすることになった。
 武家諸法度の見直しは、老中らが集まって
協議し、それをもとに道春が、東舟の協力を
得て起草した。
 以前の、秀忠が崇伝に起草せた十三ヶ条の
武家世法度を、より分かりやすく身近なこと
にも踏み込んだ内容となった。そしてさらに
六ヶ条を増やして十九ヶ条とした。
 新たに加えられたものに、参勤交代がある。
 これまでも、江戸近隣を領地とする諸大名
は頻繁に江戸城に出向き、重臣らに付け届け
をして、家光との絆を深めようと争った。
 家光はその応対をするため政務が遅れた。
 その一方、江戸より遠方を領地とする諸大
名は、なかなか出向くことが出来なかった。
 こうした地域間の格差があり、不公正なも
のとなっていた。また、偏った情報しか入ら
ず、その悪習が表に出たのが対馬の国書改ざ
んだった。
 これを改めるため、諸大名は領地と江戸と
を一年ごとに参勤することにし、頻繁に出向
く大名を遠ざけ、遠方を領地とする大名との
公平を保つことにした。
 これにより、各地の情報を集めることもで
き、大名のいない間、領地の管理を家臣に任
せることで、忠義を試し、不正も見つけやす
くなると考えた。
 参勤交代で負担が増えることも配慮し、供
をする家臣の人数を減らすように戒められた。

 かつて小早川秀秋は、筑前、筑後を領地と
していた時、主な家臣を各地にある諸城の城
主として、普段は秀秋の居城、名島城に集め
て城主間の情報交換をさせ、領地全体の様子
を把握した。そうすることで短所を見つけや
すく、長所を広めやすくした。

 道春は、当時の記憶をたどり、だぶらせて
いた。
 出来上がった武家諸法度は、家光の承認を
得て、六月に、尾張、紀伊、水戸の徳川御三
家と江戸にいた諸大名を江戸城に呼び集め、
大広間で道春に全文を読ませた。
 その後、幕府は、寺社と遠方の藩からの訴
訟を管轄する寺社奉行を設置して、老中、若
年寄、寺社奉行、町奉行、勘定頭などの組織
を再編した。
 家光は、旗本にも武家諸法度よりさらに生
活を規定した旗本諸法度、二十三ヶ条を道春
に起草させた。そして、十二月に旗本全員を
江戸城に呼び集め、大広間で年の瀬の慰労を
した後、この時も道春に旗本諸法度の全文を
読ませた。
 これは、道春のような儒者が僧侶に取って
代わる先駆けになった。
 ようやく幕府の体制が整い、より緻密な政
務が出来るようになった。