2013年9月20日金曜日

目指す世

 一通りの行事を終えて大坂城に入った家光
のもとに、江戸城・西の丸が火事になり全焼
したという知らせが入った。
 西の丸は、家光自身もそこで過ごし、亡き
秀忠も住まいしていた思いの強い場所だった。
 火事は過失による出火という知らせだった
が、キリシタンなどの不穏な動きを警戒して、
家光は急きょ、江戸に戻ることになった。
 この時、かねてから決まっていた譜代大名
の妻子を江戸に住まわせる幕命を発した。こ
れには、道春の家族も対象になり、譜代扱い
されるようになったことを意味していた。
 道春は、家族と一緒に江戸に向かうことを
決め、家光が江戸に向かった後も京に留まり、
引越しの準備をした。
 この間、道春と東舟は、藤原惺窩の門下で
四天王と呼ばれていたそのひとり、堀杏庵の
邸宅で行われる詩歌会に呼ばれることがあっ
た。そこには、那波活所、松永貞徳、安楽庵
策伝らが居並ぶ中、木下長嘯子とも久しぶり
に会うことができた。
 詩歌会では長嘯子が題を出し、貞徳、策伝
らの歌人は和歌を、道春らの儒者は漢詩を作っ
て楽しんだ。
 一息つくと皆、家光に重用されるようになっ
た道春に、今後、家光がこの世をどうしてい
くつもりなのか聞きたがった。
「私はまだまだ上様に重用されているとはい
えません。その上、稲葉正成殿、正勝殿が亡
くなり、後ろ盾を失いました。残るは福のみ
ですが、こちらは兄上のほうがお詳しいでしょ
う。頻繁に会っていると噂に聞きます」
 長嘯子がむせるように、咳を一つした。
「そのような噂があるのか。これは参った。
しかし、やましい事は何もしておらんぞ」
「分かっております」
 そこで、長嘯子は春日局について話し始め
た。
「福、いや春日局は、密かに娘を多数集め、
奥御殿を大きな勢力とされておるようです。
大御所様が亡くなり、上様は正室の孝子様を
まったく受け付けなくなっておられるご様子。
しかし、朝廷との関係を保つため、離縁はさ
れませんでしょう。問題は世継ぎです。春日
局が密かに娘を多数集めておるのもそのため。
これらの娘の中から側室を選ばれるようにし
ておると申しておりました」
 それを聞いていた道春が、補足するように
話した。
「以前、上様は私に『民と結ばれることが天
下泰平を万民に行き渡らせることになる』と
申されました。大御所様がご存命の時には、
そのようなことは到底出来ませんでしたが、
今は誰も止める者はおりません。いよいよ実
行にうつされるのでしょう。もはや、キリシ
タンもその力は尽き、異国との交流も限られ
たものとなりつつあります。これはまさに、
桃源郷ではありませんか」
 道春は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の
合戦で、松尾山に布陣した時、小早川秀秋と
して、松尾山城の曲輪に待機していた小早川
隊、一万五千人の将兵を前にして自分の理想
の国のありかたを話したことがあった。

「大陸の明には桃源郷の物語がある。河で釣
りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い込
み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。そ
こにいた村人は他の国のことは知らず、戦は
なく、自給自足で食うものにも困らない。誰
が上、誰が下と争うこともない。これが桃源
郷だ。太閤様も俺も、もとはみんなと同じ百
姓の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。
親兄弟、子らが生きたいように生き、飢える
ことのない都を皆と一緒に築きたいと思う。
そのために俺はこの身を捨てて戦う」

 道春の、この時の思いが今、実現に近づい
ているように思えた。
 すると、那波活所が思わぬことを口にした。
「その明ですが、今、内乱が起きているとい
うのを道春殿はご存知ですか」
「いえ。明の国情が乱れているとは聞いてい
ますが。多忙にかまけて世情に疎くなってお
りました」
「そうでしょうな。上様も政務が膨大になれ
ば本当のことは伝わっていないでしょう。私
が調べたところ、明をヌルハチなる者が攻め、
金という国を起したそうです。その後、ヌル
ハチは亡くなり、今は子のホンタイジが後継
者となっておるようです。この対立で、明の
国情が乱れ、朝鮮にも影響が出ているとのこ
とです」
「朝鮮はどちらに味方しておるのですか」
「ヌルハチの頃は、明に味方しておったよう
ですが、今は金の勢力が強くなって、攻めこ
まれたとも聞きました」
「そうですか。二百年続いた明でも……、そ
うですか」
 活所は顔をくもらせて話した。
「それにはどうも、豊臣秀吉公の朝鮮出兵が
きっかけになっているようなのです。明が朝
鮮出兵に気を取られている間に、ヌルハチが
力をつけたらしい」
「知りませんでした。活所殿、よく教えてい
ただきました。ありがとうございます」
「いえいえ。道春殿には、この世を良き方向
に導いてもらわねばなりません。そのために
は、私も微力ながらお力になればと思いまし
て。ここに集まった者は皆、そう思っておる
のです」
 皆、深くうなずいた。
「責任重大ですね。皆さんのご期待にそうよ
う、力を尽くしてまいります」
 さらに活所が思い出したように話を続けた。
「おぅ、そうそう、道春殿には、東舟殿とい
う強いお味方がおられますが、春勝殿も立派
になられましたぞ」
 道春の三男、春勝は、道春から儒学を学ぶ
のではなく、那波活所らに入門して修行して
いた。
「春勝が。あの子は東舟をはじめ貞徳殿、活
所殿に教えを乞いました。そのお力添えがあ
ればこそです」
「いやぁ。教えても己のものにしなければ意
味がありません。血筋でしょうな。蛙の子は
蛙。いや、鷹の子はやはり鷹だったというこ
とでしょう」
「恐れ入ります」
 喜んだ道春は、自宅に戻ると春勝に断髪さ
せ、春斎という号を与えた。そして十月になっ
て、家族全員で江戸に向かった。
 江戸に着いた道春は、家光に三男、春斎の
拝謁を請い許された。
 道春の後について歩き、江戸城に向かう春
斎は、城の周りを物珍しそうに見渡しながら、
家にいる時は気さくで優しい父、道春の後姿
が、ひときわ大きく見えていた。
 二人が江戸城の座敷に入ってしばらくする
と家光が現れ、春斎は平伏した。
 道春に促されて春斎が顔を上げると、そこ
には征夷大将軍の風格が出てきた家光が堂々
と座っていた。
 春斎の身が自然と引き締まった。
 家光は、道春がいつもとは違う父親の顔に
なっていることがおかしかった。
「そなたが春斎か」
「はっ。お初に、お目にかかります。春斎に
ございます。このたびは、上様に拝謁の栄誉
を賜り、最上の誉れにございます」
「ふむ、そなたの父上を見習い、よう精進し
て私を助けてほしい」
「ははっ、身命を賭して、上様にご奉公いた
します」
「道春、そなたは良き後継者に恵まれたな」
「恐れ入ります。今後は春斎を側におき、さ
らに精進させとうございます」
「それはよい。私も、そろそろ後継者のこと
を考えねばな」
「おお、ご決断なさいましたか」
「なんじゃ、決断とは。もしや、福から何か
聞いておるのか」
「あぅ、いや、なにも。しかし、子をもうけ
るのは早ければ早いほどよろしい。と思いま
す」
「こればかりは神のご加護がなければな」
「その前に、良き女性(にょしょう)にござ
います」
「やはり福に聞いておろう」
「いやなにも。それより、この冬の不作は民
がたいそう難儀をしておりましたが、上様の
ご配慮で一息ついておるようにございます」
「おお、そうか。それはなによりじゃな」
 春斎は、二人の会話に強い信頼と深い絆を
感じた。