2013年9月25日水曜日

島原の乱

 寛永十五年(一六三八)

 反乱軍が籠城した原城は、三方が海に面し
た崖で、陸からは攻めにくい。しかし板倉重
昌は、松平信網が加勢にやって来ることを知
ると、これ以上てこずっていてはキリシタン
を擁護していると疑われ、処罰されるのでは
ないかと恐れた。
 そこで無謀な城攻めを決行した。
 それほど、幕府はキリシタンに対して、徹
底した排除を行っていたのである。
 反乱軍は重昌の部隊が攻撃してくると、鉄
砲や弓矢で応戦し、城に近づく将兵には熱湯
や大石で応戦した。それでも後には引けない
重昌は、強引に城に突っ込み、討ち死にして
敗北した。
 この勝利に反乱軍は、益田四郎のもとに結
束を強めた。
 その時、ほどなく加勢にやって来た松平信
網、戸田氏鉄の幕府軍は、十二万人の大軍と
大砲を装備していた。また、幕府はオランダ
にも軍船の派遣を依頼し、海からの攻撃も開
始された。
 オランダが参戦したのは、宗教よりも日本
との交易を優先し、ポルトガルを日本から排
除することで、交易の独占を狙っていたから
だ。
 海と陸からの大砲による砲撃で反乱軍は次
第に劣勢になった。それでも、幕府軍は降伏
を呼びかける気はなく、全滅するまで攻撃の
手を緩めなかった。
 しばらくして、城内から物音一つたたなく
なって戦いは終わった。
 破壊された原城には、女、子、老人を含め
て三万人以上の死体が横たわり、その中に益
田四郎の死体もあった。
 その後、反乱の責任を問われた島原藩主の
松倉重治は斬罪になり、天草藩主の寺沢堅高
は自刃した。
 この反乱以降、表立ってキリシタンを名乗
る者はいなくなり、隠れキリシタンは孤島に
逃れて細々と暮らすのみとなった。
 もとはといえば、凶作と藩主の失政による
反乱だったが、反乱軍がキリシタンの救世主
のように益田四郎を祭り上げたことが、幕府
のキリシタン弾圧を正当化させる結果となっ
た。
 家光は、この反乱を教訓として武家諸法度
を一部訂正し、将軍に反逆する者があれば、
幕府の許可を得ることなく、近隣の諸大名と
協力して鎮圧できるようにした。また、領国
が疲弊していることにも配慮して、商船に限っ
ては、五百石積以上の大型船の建造を許すこ
とにして、物資の輸送が円滑になるように整
備した。
 家光は、征夷大将軍になって最大の難局を
乗り越えたことで自信を深め、幕府の組織改
革も一気に押し進めた。