2013年10月1日火曜日

去りし者

 亡くなった春日局の後任として、万が大奥
を取り仕切ることが決まった。
 万は、伊勢・慶光院の院主をしていた尼僧
だったが、家光の目に留まり、春日局の説得
を受けて俗世に戻り、しばらくは髪がのびる
のを待って大奥に入り、家光の側室となった。
 春日局から、もっとも信頼されていた。
 家光にも寵愛されていたが、子はなかった。
 正室の孝子は、家光に嫡男が生まれても、
権力争いを諦めてはいなかった。それは万が、
春日局と比べれば相手にし易いと思っていた
からだ。しかし、公家の六条有純の娘だと知
り、敵なのか味方に出来るのか推し量ってい
た。

 春日局の死で母親を失ったかのように落胆
した家光のもとに、太田資宗が道春らの作成
した諸家系図の検査を終えて持ってきた。
 表紙に「寛永諸家系図伝」と書かれ、漢字
本百八十六巻、仮名本百八十六巻の合計三百
七十二巻にもなっていた。
 家光は、その一つをゆっくりとめくりなが
ら、自分のもとに多くの者が仕え支えられて
いることを実感した。
「これが、わしを励ましてくれているようじゃ
な」
 家光はつぶやくように言って精気をとりも
どした。しかしそれもつかの間、今度は天海
が死んだという知らせが入った。
 天海は、家康に仕えて最後まで生き残り、
江戸を整備して繁栄する基礎を築いた。そし
て、政務にも深くかかわって、家康を神にま
で昇華させた。その怪僧を家光は尊敬してい
た。
 今の大飢饉は、天海の衰えと共にやって来
たのかと思わずにはいられなかった。

 京では、道春らが何も知らず、明正天皇の
退位と第四皇子、紹仁の後光明天皇の即位の
儀を静かに見守っていた。
 ようやく道春が江戸に戻ると、春日局、天
海の死と共に、東舟の子、永甫の死を知らさ
れた。
 このままでは東舟の家系が途絶えることに
なる。そこで、酒井忠勝と板倉重宗が、道春
の四男、守勝に東舟の跡継ぎとなるよう勧め
た。しかし守勝は、崇伝、天海がいなくなっ
て、林家に権力が集中するのは良くないと考
えこれを固辞した。
 この決断には道春も納得し、才能に目覚め
た守勝の成長を頼もしく思った。
 崇伝と天海を失った家光は、以前にも増し
て沢庵に助言を求めるようになった。しかし
沢庵は、政務について崇伝や天海のように深
くかかわることはしなかった。
 その沢庵は、家光の兵法師範、柳生宗矩を
介して道春を知り、親しく交流していた。
 しばらくして、道春が江戸城に登城すると、
家光が側室にしたまさが次男、亀松を産んだ
ことを知った。
 まさも春日局により大奥に入った女官だっ
た。
 家光は、春日局、天海を失った悲しさも癒
え、道春に次男誕生を嬉しそうに話した。