2013年10月7日月曜日

由井正雪

 由井正雪は、町人の子として生まれ、楠木
正成の子孫、楠木正辰の弟子として軍学を習
い、正辰の娘と結婚して婿養子になった。そ
して、名軍師として知られる張子房と諸葛孔
明から名をとった私塾の「張孔堂」を開き、
正辰の楠木流軍学を広めていた。
 その名声は高まり、諸大名や幕府からも仕
官の誘いがあったが、正雪は断り続け、張孔
堂に諸大名、旗本の子らを集めて門下生とし
ていた。
 その後、浪人が増え続け、幕府の仕官を断っ
てまで軍学を教えている正雪に共感し、ます
ます頼って来る者が多くなった。やがて、三
千人を超す一大勢力になっていった。
 そうした中での家光の死と、松平定政の幕
府に対する捨て身の批判とも受け取れる行動
が、正雪をつき動かした。
 正雪の呼びかけに応えて密かに集まった丸
橋忠弥、金井半兵衛、奥村八左衛門らが話し
合い、江戸の焼討ちを皮切りに、京、大坂な
どで決起することが決められた。これには、
天皇に幕府討伐の勅命を受けることまで綿密
に計画されていた。ところが、この中の一人、
奥村八左衛門は、幕府に内通していて計画の
すべてが幕府に伝えられていた。
 幕府は、七月二十二日に正雪が江戸を発つ
のを見計らって、丸橋忠弥を捕らえた。それ
を知らない正雪は、駿府に到着して、町年寄
の梅屋太郎右衛門の邸宅に泊まった。
 早朝、邸宅の周りには幕府の捕り方が囲み、
正雪は初めて計画が漏れていたことを知った。
「策士、策に溺れるとはこういうことだな。
計画は完璧だったが、人を信じすぎたか。ま
あよい。張子房、諸葛孔明にはなれなかった
が、町人の小僧が幕府を動かせたのだ」
 正雪はそう言うと、自刃して果てた。
 大坂にいた金井半兵衛も、正雪の死を伝え
られると、すぐに自刃した。
 こうして由井正雪の反乱はあっけなく終わっ
たが、張孔堂に残った門下生たちが、一斉に
この計画の顛末を世間に吹聴した。
 その反乱計画の中には、紀州の徳川頼宣が
加わっているとか、天皇の関与も噂されるよ
うなものだった。
 これが幕府にとって大きな痛手となった。
そして、この影響から八月に家綱が征夷大将
軍となる宣下の儀は、京ではなく江戸城で行
われた。
 道春は、家綱のために「大学倭字抄」「貞
観政要諺解」を作り、将軍宣下の儀では、宣
旨を奉じるなどした。これらの褒美に、知行
地を加増され九百十七石となった。

 慶安五年(一六五二)

 幕府は、尾張、紀伊、水戸の御三家を江戸
詰めとし、家綱を補佐するように命じた。そ
して、浪人対策として末期養子の法度を改め
ることにした。
 これまで大名、旗本が死亡した後での養子
縁組(末期養子)は認められていなかった。
そのため病気などで若くして突然、死亡した
ような止むを得ない事情でも、お家断絶とな
り、これが浪人を増やす原因だった。
 かつて、小早川秀詮が死亡したことで家臣
の平岡頼勝が養子縁組に奔走したが認められ
なかったのはこの法度があったからだ。
 そこで、五十歳未満の大名、旗本には、死
後でも養子縁組を許可することにした。
 それでも再び浪人の別木庄左衛門らが騒乱
を計画していることが分かり、この時も捕ら
えて未然に防ぐことは出来たが、さらに浪人
の処遇改善をする必要に迫られた。

 道春はこの頃、春斎の長男、春信の教育に
生きがいをみつけていた。
 七月には、春徳に次女、乙女が産まれ、に
ぎやかになった。
 九月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「承応」に改められた。