2013年10月2日水曜日

明の滅亡

 寛永二十一年(一六四四)

 道春は、家光から国史の編修を命じられた。
 国史とは、神武天皇から始まる日本の歴史
を記していこうとするもので、徳川家を中心
とした武家社会の存在を強調するためのもの
だった。
 さっそく道春は、春斎に神武天皇から持統
天皇までを、守勝に文武天皇から桓武天皇ま
でを起草させることにした。
 この年、明を窮地に追い込んだ清の皇帝、
ホンタイジが病死し、六歳のフリンが跡を継
いで皇帝となった。しかし、その過程で混乱
が起き、それに乗じて農民が反乱を起こした。
 反乱を指導する李自成が、辛うじて存続し
ていた明の守る北京に侵攻して陥落させ、大
順を建国した。ところが清はすぐに大順を攻
め、これを滅ぼした。
 こうした最中に、明の使者が日本に援軍を
求めてやって来た。
 家光は、重臣を集めて協議したが、まだ大
飢饉から立ち直っておらず、国外に出兵させ
るだけの余力はないので、断るしかなかった。
 こうして、二百五十年以上続いた明も、こ
こに滅びた。
 家光は、あらためて天下泰平を持続させる
ことが困難な事業だと悟り、内政の問題解決
に専念することにした。

 五月には、家光の側室、夏が三男、長松を
産んだ。
 夏は町人の娘で、正室の孝子に付けられた
女官だった。
 役職にもついていたが、孝子に命じられ、
家光の入浴の世話をすることになり、そこで
家光の目に留まった。
 この年が家光の厄年にあたり、厄除けのた
め、夏は家光の姉、千のいる竹橋御殿で男子
を産み、秀忠の幼名、長松と名付けられた。
そのため家光は、千を長松の養母とした。
 孝子は、家光の長男の座を春日局に先を越
され、この長松には千が養母となったことで、
自分の影響力のある子が将軍候補から遠ざけ
られるという不運が続いた。

 この年の十月には、春斎が起草していた神
武天皇から持統天皇までの国史、四冊が出来
上がり、道春はこれを「本朝編年録」とし、
別に「本朝王代系図」の一冊をあわせて家光
に献上した。
 これにより春斎には、初めての年俸二百俵
を賜った。そして、十二月に次男、又四郎が
産まれた。
 この月、後光明天皇の即位により、元号が
改められることになった。
 これまで元号は、天皇と朝廷だけで決めら
れていたが、この時から幕府も加わり、道春
は幕府から助言を求められるようになった。
 幕府に朝廷から伝えられた新しい元号は「正
保」で、道春がこれに賛同して、元号が正保
と改まった。
 道春は、これまで崇伝がしていた徳川将軍
家の若君が元服した時の実名撰進も担当する
ことになり、家光の嫡男、竹千代の名を家綱
と撰進した。こうしたことは以後、林家が代々
関わるようになっていった。