2013年5月31日金曜日

事件の結末

 この時の輝元から差し出された、秀次が謀
反を企てたとされる連判状には、秀秋の署名
もあり、秀次と同じように三成、長盛らの詰
問を受けることになった。
 話を聞いた秀秋は、署名したことをあっさ
りと認めた。
 三成が困り顔で話した。
「お待ちください秀秋殿。先ほど話しました
ように、この連判状は偽物です。それをお認
めになられては困ります」
「偽物と言い張れば処罰を免れるのか。それ
では太閤様と輝元殿がお困りであろう。偽物
であろうが本物であろうが、太閤様の認めた
関白様の命に、従わぬ者がおりましょうや。
そう太閤様に伝えい」
 そう言うと秀秋は、何食わぬ顔で席を立っ
た。そして、急いで居城、亀山城に戻り、山
口宗永と稲葉正成に告げた。
「山口は三原の父上に領地を貰い受けること、
すぐに話をまとめてまいれ。稲葉はこれから
浪人が溢れるから、ここに来る者は全て受け
入れるよう用意しておけ」
 秀秋は、この窮地を好機とみて目を輝かせ
ていた。

 文禄四年(一五九五)七月月八日

 秀吉は、秀次を伏見に呼び、木下吉隆の屋
敷に入らせた。そして、弁明の機会も与えず、
関白、左大臣の官職を剥奪して高野山に追放
し、出家させた。
 一時は内乱の危機もあったが、この程度で
治まったのは、三成、長盛らの働きによるも
のだった。しかし、秀吉の怒りは止まること
を知らず、同月十五日に秀次への切腹命令が
出され、秀次はその日のうちに切腹して果て
た。そして、これに関係したとして処罰され
る者がいる一方、家康は東方の統治を、輝元
と隆景は西方の統治をそれぞれ任されるなど、
賞された者もいた。
 秀次に加担したとされても伊達政宗のよう
にうまく弁明して処罰を免れた者もいた。し
かし、濡れ衣を着せられた諸大名は、これ以
降、豊臣家に不信感を抱くようになった。
 秀吉は、怒りが治まってよくよく考えると、
自分のしたことの愚かさに気づいた。
 捨丸を守ろうとする余り、逆に災いを防い
でくれる者を喪った。そして、この全ての元
凶を利休の屋敷がある聚楽第と考えた。
(聚楽第に住む者は利休に呪われる。秀次が
わしに刃向かったのも利休に呪われたからじゃ。
捨丸に災いが及ばぬうちに始末しなければ)
 それから数日後、秀次の一族郎党三十余名
が処刑され、聚楽第も破却された。

2013年5月30日木曜日

秀次事件

 秀次は、秀俊が小早川家に養子として出さ
れたことを知ると、何か嫌な胸騒ぎを感じた。
それに、秀吉と家康が頻繁に会い、そのたび
に五奉行に指示を出すことがあり、自分が政
務の主導権を握れないことにもいら立ってい
た。
 そんな時、秀吉が再度、朝鮮出兵を計画し
ていることが知れ渡り、諸大名から秀次のも
とに不満が寄せられた。
 ところが、その計画は秀次には知らされて
いなかった。さらにその計画では、秀次も出
兵させられることになっていると聞き、秀吉
に不信感を抱いた。
 そんなことはおかまいなしの秀吉は、完成
した伏見城に捨丸を移させた。そして、年が
明けた文禄四年(一五九五)一月には、今も
朝鮮で日本の城を守備している将兵に、城の
周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保に努
めるように命じた。
 秀次は、秀吉の朝鮮出兵を思い止まらせよ
うと朝廷に働きかけた。
 そんな時に大坂城から多額の金銀が何者か
に盗難される事件が起きた。
 この事件は、去年、名高い盗賊の石川五右
衛門が、子と共に処刑されたことに反発した
残党の仕業ではないかということで、秀吉は
秀次に「治安を良くするように」と叱責した
だけでおさまった。しかしその後、秀吉は家
康の情報から、秀次が朝廷に多額の献金をし
ていることを知ると、秀次に不信感を抱くよ
うになった。
 四月の初めに捨丸が病気になったので、秀
次が伏見城に見舞いに行くと、秀吉はあから
さまに不機嫌な顔をした。
 秀次も秀吉に目を合わせることができず、
会話することもなく、すぐに立ち去った。
 その六日後、秀次の末弟、秀保が変死する
事件が起きた。
 このことで秀吉と秀次の決裂は決定的となっ
た。
 これをすぐに察知した家康は、情勢不安に
なることを見越して江戸に戻った。
 しばらく静かな対立が続き、沈黙を破って
先に動いたのは秀吉だった。

 文禄四年(一五九五)七月三日

 秀吉は、聚楽第の秀次のもとへ、石田三成、
増田長盛ら奉行衆を向かわせ、謀反の疑いな
どで詰問させた。
 詰問の内容は以下のようなものだった。

 酒におぼれ、無用な殺生をして政治をおろ
そかにしたこと
 軍備を増強し、武装した者に市中を行列さ
せたこと
 朝廷に多額の献金をし、謀反を企てたこと

 書状を読みあげられて秀次が反論しようと
すると、先に三成が口を開いた。
「これらのことは私たちにも責任のあること
で、何とでも言い訳は立ちます」
 そう言いながら、懐から別の書状を出した。
それは、秀次に忠誠を誓うという諸大名の署
名が入っている謀反を企てた連判状だった。
「これは毛利輝元殿から差し出されたもの。
署名を見ますと北から回っていたようですが、
前田利家殿、徳川家康殿など主だった方々の
名がありません。これは明らかに偽物ですが、
太閤様がここまでされるとなると処罰を免れ
ることは難しいと思われます」
 三成の言うとおり、この詰問は処罰する手
順のたんなる通過点に過ぎなかった。
 秀次はため息をついた。
「確かに、そうじゃ。わしの覚悟はできた。
しかし、他の者の災いはなんとか食い止めた
い」
「それは私たちも最善を尽くすつもりです。
この後は軽はずみな行動は慎み、心穏やかに
お待ちいただきたく、お願い申し上げます」
 三成ら一同は、秀次に深々と平伏した。

2013年5月29日水曜日

小早川隆景の決意

 輝元に、再び秀吉から秀俊の養子縁組の要
請があると、毛利一族から前にも増して反発
が起きた。
 朝鮮出兵では多数の家臣を失い、輝元や広
家は病に倒れるほどの過酷な状況に追い込ま
れた。
 その間に所領は疲弊して、その再建もまま
ならなかったからだ。
 この時、意を決した隆景は、宍戸元秀の娘
で先代、元就のひ孫にあたる古満姫を輝元の
養女にして、秀俊は隆景の養子に迎え、古満
姫と縁組させたいと秀吉に懇願した。
 小早川家には、隆景の弟、秀包がいたが、
それを廃嫡して相続権をなくさせてまでの隆
景の毛利家に対する献身に、秀吉は感服して
快く同意した。
 この頃に任命された五大老には、徳川家康、
前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、そして小
早川隆景と毛利一族から二人も選ばれている
ことからも、その信頼度がうかがえる。
 秀俊の処遇にめどがついた秀吉は、京・伏
見の徳川家康邸にたびたび入りびたるように
なり、体力の衰えを嘆いた。
 すると以前、捨丸に利休の呪い除けを託宣
した天海が、陰陽道には延命の術があると打
ち明けた。
 秀吉は、すぐに全国から陰陽師を集めさせ
延命の術を施術させた。
 これで利休の死んだ七十歳を超えられると
秀吉は喜び、それだけで気力が回復していく
気がした。
 このことで、さらに家康との信頼関係が深
まった。
 同じ頃、秀俊は、隆景の本拠地、備後・三
原城に旅立った。
 お供には補佐役の山口宗永と新しく豊臣家
から迎えた稲葉正成がいた。
 正成は二十四歳と若かったが、石田三成に
匹敵する才能があり、武勇では三成より上だっ
た。そのため、将来は捨丸の補佐役として出
世することを望んでいたが、秀俊に仕えるこ
とになり暗く沈んでいた。
(なぜわしがこんな目に……。厄介払いされ
た養子など……、小早川家でもどうせ邪魔者
扱いされるのがおちだ。早く新しい出世の道
を見つけなければ)
 正成は、そう思うと余計に気が重くなった。
しかし、十一月十三日に、秀俊一行が三原城
に到着すると、毛利家、小早川家からは意外
にも大勢の出迎えが待っていた。その上、正
成の予想に反して大歓迎を受けたのだ。
 すぐに秀俊と隆景との養子縁組の儀が執り
行われ、豊臣秀俊改め小早川秀秋となった。
そして、連日、秀秋の大好きな鷹狩りや舟遊
びを楽しみ、夜には、近隣の諸大名など、三
千人余りが祝いに集まった。
 その座興の能楽では、輝元が小鼓を叩き、
秀秋が舞うという大宴会が催された。
 三日後には、秀秋の花嫁となる古満姫の一
行、二千人が到着し、三原の城下町をあげて
の盛大な婚儀となった。
 秀秋と古満姫は共に十三歳で、幼い夫婦に、
町内が和やんだ雰囲気に包まれた。
 こうして秀秋は、十一日間を過ごした。
 この盛大な歓待は、毛利一族の意地だった
のかもしれない。
 最後の日、隆景は、いずれ近いうちに所領
の筑前、筑後、肥後を秀秋に譲るという約束
をした。
 秀秋は古満姫と共に、来た時よりも大勢の
人々に見送られて三原城を後にした。

2013年5月28日火曜日

繁栄の手本

 文禄三年(一五九四)

 秀吉は正月明けにいきなり、朝鮮に出兵し
なかった諸大名に、京・伏見の指月山に城を
築城するように命じた。
 秀次はこの越権行為に、関白の座を失うの
ではないかと不安がよぎった。
 それでも秀次は好意的に受け取り、秀吉が
朝鮮に出兵した諸大名の不満を解消するため
に、色々考えていたのだと思うことにした。
そして、秀吉の側を離れず打ち解けるように
努めた。
 二月になると秀吉は、秀次や公家、諸大名
を伴って大和・吉野山で花見を催し、茶会や
歌会で昔に戻って楽しんだ。
 この時、十三歳になった秀俊も呼ばれ和歌
を詠んだ。

 芳野山木ずゑをわたる春風も
  ちらさぬ花をいかで手をらん

 君か代は
  ただしかりけりみよしのゝ
    花におとせぬ峯の松かぜ

 秀俊は、身の回りが変化していることを肌
で感じていた。
 秀吉は四月に入るとすぐ、京の前田利家の
邸宅を訪ねた。
 利家も家康と同じく朝鮮出兵を免除されて
いた。
 二人は同じ時代を生き抜いてきたことを懐
かしく話し、お互いの労をねぎらった。そし
て、秀吉は利家に「捨丸の後見人になって欲
しい」と懇願した。
 利家は秀吉より一つ年下で、自分も高齢で
あることを理由に断ったが、秀吉に押し切ら
れ、自分が死んだ後は嫡男の利長が跡を引き
継ぐことを条件に承諾した。
 これにほっとしたのか、秀吉は数日後、小
便を漏らすという老化の兆候がみられるよう
になった。
 死期を悟った秀吉は、悩んでいた秀俊の処
遇を急ぐことにした。
 秀吉が豊臣家繁栄の手本としたのは毛利一
族だ。
 毛利一族は、先代、元就の次男、元春が、
吉川家を乗っ取るかたちで養子となり、家督
を相続した。そして、三男、隆景が、小早川
一族の分家に養子となりその後、本家を乗っ
取って小早川家をまとめた。
 父子、兄弟が争う戦国の世にありながら、
この三家は強い絆で結ばれ、元就と元春が死
去した後も、毛利輝元を小早川隆景、吉川広
家が補佐して、西国を支配していたのである。
 秀吉は以前、まだ子のいない輝元に「秀俊
を養子にするように」と申し入れたことがあっ
た。
 これに毛利一族は猛反対し、特に広家は「本
能寺の変で秀吉に騙された」と、父、元春か
ら聞かされ、警戒するように言い含められて
いたので、不信感が誰よりも強かった。しか
し、隆景は「反対したところで、秀吉に刃向
かうことができない現実をふまえ、うまく回
避する方策を考えるべきだ」と説いた。
 思案した隆景はすぐに動き、自らの弟で穂
井田元清の子、秀元を輝元の養子とすること
が、以前から決まっていたことにした。そし
て、朝鮮出兵のために秀吉が肥前・名護屋に
向かう途中、安芸・広島城に滞在したさいに
秀元を引き合わせた。
 その時に秀吉は、秀元を輝元の養子と認め
ていた。
 秀吉はその後の朝鮮出兵で、秀俊の処遇を
棚上げにしていたが、捨丸が生まれたからに
は、どうしても毛利一族を取り込み、捨丸を
補佐する体制を整えたいと考えていた。

2013年5月27日月曜日

拾丸と秀次

 朝鮮で戦った各部隊が次々と肥前・名護屋
の港に帰還する中、朝鮮の南部に築城した日
本の城を守備するという名目で、一部の将兵
が残された。
 これらの者は、兵糧が乏しくなると多数が
朝鮮に投降していった。
 朝鮮ではこれらの者を「降倭」と呼んで受
け入れ、鉄砲の製造方法や戦闘術を学んで、
再び日本が侵略してくるのに備え始めた。

 秀吉は、今度こそ淀が生んだ嫡男を守ろう
と、異常なほど神経を尖らせていた。
 鶴松丸が利休の呪いで死んだと信じている
秀吉は、生まれた子から利休の呪いを取り払
うため、家康の側近となり陰陽道を極めた僧
侶、南光坊天海を頼った。
 その天海の託宣により、生まれた子は家臣
の松浦重政が拾ったことにして、名も拾い子
ということで拾丸と名付けられた。
 家康はこれをきっかけに、朝鮮侵略の失敗
で日増しに立場の悪くなる秀吉を擁護して接
近していった。
 家康としては、秀吉の影響力が弱くなり、
関白、秀次が正式に後継者になれば、自分の
天下取りが遠のくのではないかとの思惑から
だ。また、国替えで押し付けられた荒廃して
いる領地の開発が始まったばかりで、それを
秀次に邪魔されないようにする必要があった
のだ。
 家康の擁護を秀吉は、朝鮮出兵を免除した
ことを感謝しているからだと信じていた。

 文禄二年(一五九三)九月

 秀吉は、肥前・名護屋から京に帰ると、す
ぐに大坂城にいる淀と捨丸に会った。
 その元気な様子に安心した秀吉は、十月に
は捨丸と秀次の生まれたばかりの娘、菊を婚
約させた。これは、秀次を後継者ではなく他
人として扱うことを意味していた。
 そのかわり秀次には、日本を五分してその
四を与えることを約束した。
 その秀次のもとには、朝鮮に出兵して所領
が疲弊している諸大名からの不満が伝えられ
ていた。
 こんな時、秀長なら諸大名をうまくなだめ
る一方、秀吉に弟としてわだかまりなく進言
できただろう。しかし、今の立場の秀次には
すぐに進言することはできなかった。   
 秀吉は、朝鮮侵略の失敗から逃げるように、
尾張・清洲城の家康のところに入りびたるな
ど、この年末は隠居した太閤として都合よく
振舞った。
 こうして先手を打つかたちで秀次を突き放
したのだ。
 家康は、秀吉と秀次の関係が悪化していく
のを尻目に、江戸に招いた藤原惺窩から、明
に伝わる帝王学「貞観政要」を学び、来るべ
き時に備えた。

2013年5月26日日曜日

休戦

 十一月に肥前・名護屋城に戻った秀吉は、
朝鮮侵攻が順調に進んでいるものと思ってい
た。
 朝鮮の各地で起きている義兵の反撃を日本
の一揆程度に考え、制圧した地域での築城が
進んでいる様子を想像していたのだ。
 余裕を取り戻した秀吉は、連れて来た淀、
松の丸らと名護屋城下の町内を見物して楽し
み、すでに来ていた徳川家康と前田利家を名
護屋城に呼んで、組み立てられた黄金の茶室
で、新しく茶頭にした古田織部に茶を点てさ
せた。
 秀吉は、商人出の千利休を自刃させて以後、
大名の織部が作る斬新な茶器などを流行させ、
織部を茶の湯の改革者にすることで世間の批
判をかわした。そして、身分制度を厳守する
体制を整えた。また、詫び茶特有の狭い茶室
には、茶を立てる主人と茶を飲む客の間に無
意識のうちに師弟関係ができる効果があるこ
とに気づいた秀吉は、諸大名を手懐けること
に利用するため京・伏見に建築する邸宅の趣
向は皮肉にも利休好みにするよう命じていた。
 茶をすすっていた家康が楽しみにしていた
のは、藤原惺窩と会うことだった。
 家康は、以前、秀俊の居城に惺窩が寄宿し
ていることを知ると、秀俊に惺窩との面談を
執り成してほしいと頼んでいた。
 秀俊は快く応じ、この時、名護屋城に来て
いた家康と惺窩の面談が実現したのだ。
 家康は、噂に聞こえた惺窩の学識に心酔し、
惺窩も家康が学問を尊び実践しようとする態
度に感動した。
 意気投合した家康と惺窩は、近いうちに江
戸で会うことを約束して別れた。

 朝鮮では、冬が近づくにつれ、日本軍の武
器、弾薬、兵糧の補給が困難になり、各部隊
は次々に退却をよぎなくされた。
 攻勢を強める明軍は、翌文禄二年(一五九
三)一月に、日本軍が集結していた漢城の近
くまで迫った。しかし、小早川隆景の部隊な
どによる伏兵戦で敗退した。そして、三月に
は加藤清正によって、逃亡していた朝鮮の国
王が捕らえられた。
 このことで明軍の総大将、李如松から講和
の申し出があり、沈惟敬と小西行長が交渉す
ることになった。
 秀吉はこの時もまた、自ら朝鮮に渡ること
を計画していたが、今度は淀の懐妊という知
らせで、またしても朝鮮行きを延期すること
になった。そのため、日本から講和の条件を
出すことにした。
 その講和の条件は、

 明の姫宮を日本の天皇の后とすること
 勘合貿易を復旧すること
 明、日本両国の武官による和平の誓紙を交
換すること
 日本を朝鮮王とし南部四道を与えること
 朝鮮王子、大臣を人質として来日させるこ

 日本は捕虜とした朝鮮の二人の王子を返還
する
 朝鮮は大臣の誓紙を提出すること

 これを受け取った小西行長は、なんとして
も講和を成功させたいと思案し、朝鮮の二人
の王子を返還する替わりに勘合貿易の復旧を
するということだけを条件として、明の沈惟
敬に伝えた。
 長引いていた講和交渉も八月三日に淀が男
子を生んだことで、秀吉は京に戻ることにな
り、朝鮮侵攻はうやむやな状態で休戦に入っ
た。

2013年5月25日土曜日

秀吉落胆

 文禄元年(一五九二)七月二十二日

 秀吉のもとに、大政所が危篤という知らせ
があり、すぐに京に戻ったが、着いたときに
はすでに死去していた。
 老いていたとはいえ、鶴松丸に次ぐ凶事に
秀吉の落胆の色は隠せなかった。
 大政所の葬儀は、しょうすいしきった秀吉
の名代として秀次が執り行った。
 秀吉は八月になると、京・伏見に自らの隠
居所となる邸宅の建築を命じるほど、朝鮮を
征服する意欲を失っていた。
 そうした秀吉を慰めたのは淀だった。
 秀吉は、鶴松丸の死を乗り越えて明るく振
る舞い、自分を元気づけようとする淀を愛し
く思い、やがて気力を取り戻した。
 朝鮮の日本軍は、漢城に集結すると、秀吉
からの命令が一時途絶えたこともあり、軍議
をおこない、各部隊は分散して侵攻すること
になった。

 平安道、一番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
  有馬晴信、大村喜前、五島純玄
 咸鏡道、二番隊
  加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
 黄海道、三番隊
  黒田長政、大友吉統
 江原道、四番隊
  毛利吉成、島津義弘、島津忠豊
  伊東祐兵
 忠清道、五番隊
  福島正則、生駒親生、来島通之
  長宗我部元親、蜂須賀家政
 全羅道、六番隊
  小早川隆景、秀包、立花宗茂
 慶尚道、七番隊
  毛利輝元
 京畿道、八番隊
  宇喜多秀家

 再び侵攻を開始した各部隊は、朝鮮全土を
次々に制圧した。しかし、それがもとで補給
路が広範囲になり、兵糧の確保が難しくなっ
た。
 それでも加藤清正の部隊は、朝鮮の王子二
人を捕らえ明にまで迫った。
 やがて日本軍の侵攻が鈍り始めた。
 これを待っていたかのように朝鮮側では、
各地で正規軍には属さない義兵が組織され、
攻勢に出た。
 海上でも朝鮮の李舜臣が率いる水軍が、態
勢を整えて反撃を開始し、藤堂高虎、脇坂安
治、九鬼嘉隆らの率いる水軍を次々に撃破し
ていった。
 朝鮮の主力として現れた軍船は「亀甲船」
と呼ばれ、亀の甲らのような湾曲した鉄板で
覆われていた。
 この亀甲船には、槍のような突起があり、
天宇銃筒、地字銃筒、玄字銃筒などと呼ばれ
る大砲を十四門も装備していた。
 これに対する日本の軍船は、ほとんどが木
造船で数隻は鉄板で覆った鉄甲船があったが、
それには大筒程度の威力しかない大砲が船首
に三門しか搭載されていなかった。また、不
慣れな海域だったこともあり、逃げるのが精
一杯だった。
 そこで日本軍は、朝鮮水軍の拠点としてい
る港を陸上から攻撃することにした。
 これにより朝鮮水軍の出撃回数は減っていっ
た。
 しばらくすると、朝鮮からの要請にこたえ
て明軍が支援に動き、戦いはこう着状態となっ
た。
 この戦いで日本軍は初めて、明軍が使用し
た大将軍砲、威遠砲などの大砲と火箭(カセ
ン)と呼ばれる火を噴いて飛び、しばらくす
ると炸裂する爆弾(現在のロケット弾のよう
なもの)などの新兵器を目の当たりにし、そ
の威力を身をもって体験した。
 これらは、大友義鎮が使用していた大砲と
は比べ物にならない破壊力があった。