2013年5月29日水曜日

小早川隆景の決意

 輝元に、再び秀吉から秀俊の養子縁組の要
請があると、毛利一族から前にも増して反発
が起きた。
 朝鮮出兵では多数の家臣を失い、輝元や広
家は病に倒れるほどの過酷な状況に追い込ま
れた。
 その間に所領は疲弊して、その再建もまま
ならなかったからだ。
 この時、意を決した隆景は、宍戸元秀の娘
で先代、元就のひ孫にあたる古満姫を輝元の
養女にして、秀俊は隆景の養子に迎え、古満
姫と縁組させたいと秀吉に懇願した。
 小早川家には、隆景の弟、秀包がいたが、
それを廃嫡して相続権をなくさせてまでの隆
景の毛利家に対する献身に、秀吉は感服して
快く同意した。
 この頃に任命された五大老には、徳川家康、
前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、そして小
早川隆景と毛利一族から二人も選ばれている
ことからも、その信頼度がうかがえる。
 秀俊の処遇にめどがついた秀吉は、京・伏
見の徳川家康邸にたびたび入りびたるように
なり、体力の衰えを嘆いた。
 すると以前、捨丸に利休の呪い除けを託宣
した天海が、陰陽道には延命の術があると打
ち明けた。
 秀吉は、すぐに全国から陰陽師を集めさせ
延命の術を施術させた。
 これで利休の死んだ七十歳を超えられると
秀吉は喜び、それだけで気力が回復していく
気がした。
 このことで、さらに家康との信頼関係が深
まった。
 同じ頃、秀俊は、隆景の本拠地、備後・三
原城に旅立った。
 お供には補佐役の山口宗永と新しく豊臣家
から迎えた稲葉正成がいた。
 正成は二十四歳と若かったが、石田三成に
匹敵する才能があり、武勇では三成より上だっ
た。そのため、将来は捨丸の補佐役として出
世することを望んでいたが、秀俊に仕えるこ
とになり暗く沈んでいた。
(なぜわしがこんな目に……。厄介払いされ
た養子など……、小早川家でもどうせ邪魔者
扱いされるのがおちだ。早く新しい出世の道
を見つけなければ)
 正成は、そう思うと余計に気が重くなった。
しかし、十一月十三日に、秀俊一行が三原城
に到着すると、毛利家、小早川家からは意外
にも大勢の出迎えが待っていた。その上、正
成の予想に反して大歓迎を受けたのだ。
 すぐに秀俊と隆景との養子縁組の儀が執り
行われ、豊臣秀俊改め小早川秀秋となった。
そして、連日、秀秋の大好きな鷹狩りや舟遊
びを楽しみ、夜には、近隣の諸大名など、三
千人余りが祝いに集まった。
 その座興の能楽では、輝元が小鼓を叩き、
秀秋が舞うという大宴会が催された。
 三日後には、秀秋の花嫁となる古満姫の一
行、二千人が到着し、三原の城下町をあげて
の盛大な婚儀となった。
 秀秋と古満姫は共に十三歳で、幼い夫婦に、
町内が和やんだ雰囲気に包まれた。
 こうして秀秋は、十一日間を過ごした。
 この盛大な歓待は、毛利一族の意地だった
のかもしれない。
 最後の日、隆景は、いずれ近いうちに所領
の筑前、筑後、肥後を秀秋に譲るという約束
をした。
 秀秋は古満姫と共に、来た時よりも大勢の
人々に見送られて三原城を後にした。