2013年5月26日日曜日

休戦

 十一月に肥前・名護屋城に戻った秀吉は、
朝鮮侵攻が順調に進んでいるものと思ってい
た。
 朝鮮の各地で起きている義兵の反撃を日本
の一揆程度に考え、制圧した地域での築城が
進んでいる様子を想像していたのだ。
 余裕を取り戻した秀吉は、連れて来た淀、
松の丸らと名護屋城下の町内を見物して楽し
み、すでに来ていた徳川家康と前田利家を名
護屋城に呼んで、組み立てられた黄金の茶室
で、新しく茶頭にした古田織部に茶を点てさ
せた。
 秀吉は、商人出の千利休を自刃させて以後、
大名の織部が作る斬新な茶器などを流行させ、
織部を茶の湯の改革者にすることで世間の批
判をかわした。そして、身分制度を厳守する
体制を整えた。また、詫び茶特有の狭い茶室
には、茶を立てる主人と茶を飲む客の間に無
意識のうちに師弟関係ができる効果があるこ
とに気づいた秀吉は、諸大名を手懐けること
に利用するため京・伏見に建築する邸宅の趣
向は皮肉にも利休好みにするよう命じていた。
 茶をすすっていた家康が楽しみにしていた
のは、藤原惺窩と会うことだった。
 家康は、以前、秀俊の居城に惺窩が寄宿し
ていることを知ると、秀俊に惺窩との面談を
執り成してほしいと頼んでいた。
 秀俊は快く応じ、この時、名護屋城に来て
いた家康と惺窩の面談が実現したのだ。
 家康は、噂に聞こえた惺窩の学識に心酔し、
惺窩も家康が学問を尊び実践しようとする態
度に感動した。
 意気投合した家康と惺窩は、近いうちに江
戸で会うことを約束して別れた。

 朝鮮では、冬が近づくにつれ、日本軍の武
器、弾薬、兵糧の補給が困難になり、各部隊
は次々に退却をよぎなくされた。
 攻勢を強める明軍は、翌文禄二年(一五九
三)一月に、日本軍が集結していた漢城の近
くまで迫った。しかし、小早川隆景の部隊な
どによる伏兵戦で敗退した。そして、三月に
は加藤清正によって、逃亡していた朝鮮の国
王が捕らえられた。
 このことで明軍の総大将、李如松から講和
の申し出があり、沈惟敬と小西行長が交渉す
ることになった。
 秀吉はこの時もまた、自ら朝鮮に渡ること
を計画していたが、今度は淀の懐妊という知
らせで、またしても朝鮮行きを延期すること
になった。そのため、日本から講和の条件を
出すことにした。
 その講和の条件は、

 明の姫宮を日本の天皇の后とすること
 勘合貿易を復旧すること
 明、日本両国の武官による和平の誓紙を交
換すること
 日本を朝鮮王とし南部四道を与えること
 朝鮮王子、大臣を人質として来日させるこ

 日本は捕虜とした朝鮮の二人の王子を返還
する
 朝鮮は大臣の誓紙を提出すること

 これを受け取った小西行長は、なんとして
も講和を成功させたいと思案し、朝鮮の二人
の王子を返還する替わりに勘合貿易の復旧を
するということだけを条件として、明の沈惟
敬に伝えた。
 長引いていた講和交渉も八月三日に淀が男
子を生んだことで、秀吉は京に戻ることにな
り、朝鮮侵攻はうやむやな状態で休戦に入っ
た。