家康は、伏見城の誰もいない居間で、書物
を見ながら独り言をつぶやいた。
「秀秋を備前と美作に国替えして間もない。
領民の中には、前の領主、秀家を慕うものが
まだ多い。行って、秀秋は西軍の裏切り者と
ふれまわり、まずは領民を離反させよ。秀秋
の家臣、平岡頼勝は、わしが送り込んだ者じゃ。
連絡をとって城内に入り、秀秋に毒を盛れ」
家康の後ろには床の間があり、そこに掛かっ
ている掛け軸は、家康が三方ヶ原の戦いに敗
れた時に描かせたという頬杖をついた絵だっ
た。
「その毒を盛れば発狂する。一度に多く与え
過ぎず、すぐには殺すな。少しずつ与えて発
狂を長引かせるのじゃ。そうすれば世間は、
秀秋が西軍を裏切り、三成に祟られて狂いだ
したと噂を広めてくれる。それがもとで死ね
ば、誰もわしを疑う者はいないだろう。人を
裏切ると祟られると思えば、徳川家に逆らう
者もいなくなる。分かったな、行け」
家康の後ろにある掛け軸が風もないのに揺
れた。
それからすぐ、刺客のひとりが平岡の手引
きで岡山城内に入り、料理番としてしばらく
は秀詮の信頼を得ることに努めた。
稲葉正成は、新しく入った料理番が、以前
に徳川家に仕えていたことは平岡から知らさ
れていて、そのことになんの疑いも抱いてい
なかった。そのため、料理番は警戒されるこ
ともなく、秀詮の料理を任されるようになっ
た。
料理番は、秀詮からも信頼を得た頃、秀詮
の料理に阿片を少しずつ混ぜ始めた。
この当時、阿片のことは日本ではまったく
知られていなかった。
家康のもとには、関ヶ原の合戦で軍事顧問
となったウイリアム・アダムスが三浦按針(あ
んじん)の名を与えられて家臣となっていた。
按針は、家康が薬草に詳しいことを知り、
当時では珍しかった阿片が人を狂わせる毒薬
だということを教えた。そこで家康は、密か
に阿片を入手し、刺客に持たせたのだ。
秀詮が狂いだしても、侍医には原因を調べ
る方法がなく、どう対処していいか分からな
い。まして、家臣や領民に医学の知識などな
く、秀詮が徐々に異常な行動をし始めると、
原因が分からず、ただ恐れるばかりだった。
こんなことがあると人は、祟りなどの神が
かり的な力としか考えず、それを疑うことも
なかった。
料理番は、秀詮の発狂が深刻になっていく
のを確認して、仲間達を呼んだ。
しばらくすると領内に、秀詮の噂が広まり
始めた。
「今度来た新しい殿様が狂いだしたそうな。
なんでも、殿様は関ヶ原の合戦で、西軍を裏
切ったとかで、それがもとで死んだ石田三成
様が恨んで祟っているらしいぞ」
悪い噂は尾ひれが付いて、あっという間に
広がった。
「殿様は阿呆だから、西軍と東軍のどっちに
味方したほうがいいか分からんようになって、
家康様が鉄砲を撃つと、それに驚き、味方の
西軍を攻めたらしい。負けた大谷吉継様と石
田三成様は、たいそう恨んで死んだそうな。
それで祟られとるんじゃと」
これを信じ込む者もいたが、多くの者は疑っ
ていた。それは、合戦中に裏切ったというが、
そんな日和見的な行動をする者に家康が領地
を与えることはない。寝返ることは事前に知
らせておかなければ意味がないからだ。また、
疲弊した所領を急速に復興させ、領民の生活
を安定させたことは、領民の誰もが身をもっ
て体験している事実で、このことに恩を感じ
ていたからだ。しかし、秀詮が時々、発狂し
ている事実が明らかになると、次第に噂を信
じる者が増えていった。だが、秀詮の発狂は
芝居だった。
秀詮は、家康から備前と美作を与えられた
時から警戒していたのだ。
2013年7月7日日曜日
2013年7月6日土曜日
領地復興
三成は、近江・佐和山城に近づくこともで
きず、逃亡を続けていた。
城では、三成の留守を二千人の兵が、死を
覚悟して守りぬこうと籠城していた。
秀秋の部隊は、朽木元綱、脇坂安治などの
部隊と共に城壁に迫った。しかし、籠城兵の
防戦に死傷者が続出した。
秀秋の部隊には、関ヶ原の合戦が終わった
直後から不穏な動きをする一団があった。そ
れは、家康から押し付けられた浪人の中にま
ぎれていた家康の家臣たちだった。その一団
のことを秀秋は、うすうす感づいていた。そ
こで、この時とばかりに、この一団を先鋒に
選び、城の石垣を登らせ、死傷者をだすこと
になったのだ。
佐和山城は一日では陥落せず、二日目の総
攻撃に抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放
ち、城は焼け落ちた。
城内は、三成が質素倹約をしていたと見ら
れる様子がうかがえ、金銀などはどこにも見
当たらなかった。それらはすべて、松尾山城
に運ばれて、今は秀秋の手の中にある。
やがて、逃げていた三成も捕らえられ、さ
らし者にされた挙句に六条河原で斬首にされ
た。
天下を奪いあう動乱も、家康が大坂城に入
ることで全てが終わった。
関ヶ原の合戦後の論功行賞で、秀秋には家
康が約束したとおり、備前と美作の五十一万
石が与えられた。
前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が、朝鮮出兵に駆
り出されて政務が滞り、疲弊していた。
領民は働く気をなくし、田畑に草が茂り、
道はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
家康は、あらかじめ備前と美作が疲弊して
いることを知っていて、それを餌に、秀秋が
東軍に味方すれば与えると約束したのだ。
仮に秀秋が味方して勝利しても、備前と美
作なら惜しくはないと考えていた。そして、
いずれ秀秋が疲弊した領地をもてあまし、さ
らに悪化させれば、それを理由に処罰し、領
地を取り上げるつもりでいた。
(小僧が何も知らんで。お前の領地はすべて
わしの手の中じゃ)
ところが、備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城の
修築を、家康に許可を得ておこない、以前の
二倍の外堀を、わずか二十日間で完成させた。
そして、検地の実施、寺社の復興、道の改修、
農地の整備などをおこない、急速に近代化さ
せていった。
これらは秀吉の政策と藤原惺窩の教えを手
本にしていた。そして、松尾山城から運び出
した三成の膨大な軍資金がなければなしえな
かったことだ。
秀詮が、今でも豊臣秀吉の養子なら莫大な
金銀を調達するのはたやすかっただろう。し
かし、今は毛利家の家臣である小早川家の養
子だ。
その毛利家は、豊臣秀吉の時代には安芸、
周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐の七ヵ
国を所領とした百二十万石の大大名だったが、
関ヶ原の合戦で毛利輝元は大坂城に入り秀吉
の嫡男、秀頼を守るという理由で動かなかっ
た。そして、その名代で関ヶ原に向かわせた
毛利秀元と吉川広家の部隊は、戦いが始まっ
ても動かず、最後まで西軍とも東軍とも言え
ない挙動をした。そのため、石田三成と通じ
ていた安国寺恵瓊は責任をすべてかぶり、捕
らえられた三成と供に六条河原で斬首にされ
た。
合戦後に輝元が大坂城から退く時も、家康
に不信を抱かせたことで、西から反乱軍が出
たのは西の統治者である毛利家の失態とされ、
輝元は改易されそうになった。しかし、吉川
広家が家康に直談判して広家の所領になるは
ずだった周防、長門二カ国の三十万石を輝元
の所領とすることで改易は免れた。その結果、
百二十万石からの大幅な減封となった。
今では分家の小早川家より石高が減り、大
半の家臣を減らさなければいけない有様だっ
た。そんな状態の毛利家が、備前、岡山城の
修築費用を出せるはずはない。
秀詮が頼れる者はいなかったのだ。
三成が松尾山城の曲輪に埋めていた軍資金
は、ざっと五十万両。これを稲葉正成の小隊
が密かに運び出し、一旦は筑前に持ち込まれ
て、秀詮の居城、名島城に納められた。
備前、美作の復興にはこの軍資金の一部が
有効に使われ、予想以上の成果をあげること
ができた。
秀詮は、家康の全国支配の中で、秀吉の政
治を継承し、惺窩から学んだ独立自治という
桃源郷の実現を目指していたのだ。
こうした秀詮の動きは、家康の耳に逐一入っ
ていた。ただし、復興資金の出所はつかんで
いなかった。
秀詮らの城攻めで半壊した伏見城は、合戦
後に改築され、家康が移っていた。そこで、
秀詮の動きについて報告を聞いた家康は、驚
きをとおりこして恐怖を感じた。
秀詮の戦での能力は、身をもって思い知ら
されたが、まさか所領を統治する能力まで優
れているとは、思ってもみなかったからだ。
秀詮が岡山城の修築をする許可を与えたの
も、修築費用はどこにもないはずで、領民の
負担が増大し、一揆などが起きて、政務が混
乱すると見込んでいたからだ。
秀詮の優れた統治能力は、自分や跡を継ぐ
秀忠が全国支配するうえで、最大の障害にな
ることは容易に想像できた。
秀詮は、豊臣家と血縁関係者でもあり、将
来、豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担
ぎ出されるかもしれない。
すぐにでも討伐したいが、秀詮は戦功をあ
げているので、おおっぴらに殺しては諸大名
の忠節心が得られなくなる。そもそも、秀詮
と戦をすれば多大な損害は免れない。
いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。
きず、逃亡を続けていた。
城では、三成の留守を二千人の兵が、死を
覚悟して守りぬこうと籠城していた。
秀秋の部隊は、朽木元綱、脇坂安治などの
部隊と共に城壁に迫った。しかし、籠城兵の
防戦に死傷者が続出した。
秀秋の部隊には、関ヶ原の合戦が終わった
直後から不穏な動きをする一団があった。そ
れは、家康から押し付けられた浪人の中にま
ぎれていた家康の家臣たちだった。その一団
のことを秀秋は、うすうす感づいていた。そ
こで、この時とばかりに、この一団を先鋒に
選び、城の石垣を登らせ、死傷者をだすこと
になったのだ。
佐和山城は一日では陥落せず、二日目の総
攻撃に抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放
ち、城は焼け落ちた。
城内は、三成が質素倹約をしていたと見ら
れる様子がうかがえ、金銀などはどこにも見
当たらなかった。それらはすべて、松尾山城
に運ばれて、今は秀秋の手の中にある。
やがて、逃げていた三成も捕らえられ、さ
らし者にされた挙句に六条河原で斬首にされ
た。
天下を奪いあう動乱も、家康が大坂城に入
ることで全てが終わった。
関ヶ原の合戦後の論功行賞で、秀秋には家
康が約束したとおり、備前と美作の五十一万
石が与えられた。
前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が、朝鮮出兵に駆
り出されて政務が滞り、疲弊していた。
領民は働く気をなくし、田畑に草が茂り、
道はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
家康は、あらかじめ備前と美作が疲弊して
いることを知っていて、それを餌に、秀秋が
東軍に味方すれば与えると約束したのだ。
仮に秀秋が味方して勝利しても、備前と美
作なら惜しくはないと考えていた。そして、
いずれ秀秋が疲弊した領地をもてあまし、さ
らに悪化させれば、それを理由に処罰し、領
地を取り上げるつもりでいた。
(小僧が何も知らんで。お前の領地はすべて
わしの手の中じゃ)
ところが、備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城の
修築を、家康に許可を得ておこない、以前の
二倍の外堀を、わずか二十日間で完成させた。
そして、検地の実施、寺社の復興、道の改修、
農地の整備などをおこない、急速に近代化さ
せていった。
これらは秀吉の政策と藤原惺窩の教えを手
本にしていた。そして、松尾山城から運び出
した三成の膨大な軍資金がなければなしえな
かったことだ。
秀詮が、今でも豊臣秀吉の養子なら莫大な
金銀を調達するのはたやすかっただろう。し
かし、今は毛利家の家臣である小早川家の養
子だ。
その毛利家は、豊臣秀吉の時代には安芸、
周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐の七ヵ
国を所領とした百二十万石の大大名だったが、
関ヶ原の合戦で毛利輝元は大坂城に入り秀吉
の嫡男、秀頼を守るという理由で動かなかっ
た。そして、その名代で関ヶ原に向かわせた
毛利秀元と吉川広家の部隊は、戦いが始まっ
ても動かず、最後まで西軍とも東軍とも言え
ない挙動をした。そのため、石田三成と通じ
ていた安国寺恵瓊は責任をすべてかぶり、捕
らえられた三成と供に六条河原で斬首にされ
た。
合戦後に輝元が大坂城から退く時も、家康
に不信を抱かせたことで、西から反乱軍が出
たのは西の統治者である毛利家の失態とされ、
輝元は改易されそうになった。しかし、吉川
広家が家康に直談判して広家の所領になるは
ずだった周防、長門二カ国の三十万石を輝元
の所領とすることで改易は免れた。その結果、
百二十万石からの大幅な減封となった。
今では分家の小早川家より石高が減り、大
半の家臣を減らさなければいけない有様だっ
た。そんな状態の毛利家が、備前、岡山城の
修築費用を出せるはずはない。
秀詮が頼れる者はいなかったのだ。
三成が松尾山城の曲輪に埋めていた軍資金
は、ざっと五十万両。これを稲葉正成の小隊
が密かに運び出し、一旦は筑前に持ち込まれ
て、秀詮の居城、名島城に納められた。
備前、美作の復興にはこの軍資金の一部が
有効に使われ、予想以上の成果をあげること
ができた。
秀詮は、家康の全国支配の中で、秀吉の政
治を継承し、惺窩から学んだ独立自治という
桃源郷の実現を目指していたのだ。
こうした秀詮の動きは、家康の耳に逐一入っ
ていた。ただし、復興資金の出所はつかんで
いなかった。
秀詮らの城攻めで半壊した伏見城は、合戦
後に改築され、家康が移っていた。そこで、
秀詮の動きについて報告を聞いた家康は、驚
きをとおりこして恐怖を感じた。
秀詮の戦での能力は、身をもって思い知ら
されたが、まさか所領を統治する能力まで優
れているとは、思ってもみなかったからだ。
秀詮が岡山城の修築をする許可を与えたの
も、修築費用はどこにもないはずで、領民の
負担が増大し、一揆などが起きて、政務が混
乱すると見込んでいたからだ。
秀詮の優れた統治能力は、自分や跡を継ぐ
秀忠が全国支配するうえで、最大の障害にな
ることは容易に想像できた。
秀詮は、豊臣家と血縁関係者でもあり、将
来、豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担
ぎ出されるかもしれない。
すぐにでも討伐したいが、秀詮は戦功をあ
げているので、おおっぴらに殺しては諸大名
の忠節心が得られなくなる。そもそも、秀詮
と戦をすれば多大な損害は免れない。
いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。
2013年7月5日金曜日
合戦の余韻
戦いの余韻が残る関ヶ原。
三成が逃亡し、主のいなくなった陣屋は荒
れ果て、つかの間の勝利に沸いた残像が消え
ていった。
家康は陣中に少しとどまり、お茶を飲もう
とするが、手が震えて定まらず、やっとのこ
とで飲んだ。
(かっ、勝った。これが惺窩が秀秋に伝授し
た兵法か。しかし、それを実践したあの小僧、
恐ろしい奴じゃ)
家康は合戦の後、藤川の高地にあった大谷
吉継の陣屋に移動し、諸大名の拝謁に応じた。
集まった諸大名は鎧を脱ぎ、酒を浴びるよ
うに飲み、誰もが、あわや負け戦からの勝利
に酔いしれていた。
家康は、次から次へと諸大名の祝辞を受け、
それに満面の笑みで応えてねぎらった。
「皆、無事でなによりじゃ。皆のおかげで、
大勝利することができた。ありがとうな。あ
りがとう。ありがとう」
頭を下げる家康に、一同は平伏すと、天下
を取った家康に喝采の声を上げ、また騒ぎ出
した。
満足そうな家康だが、目は怒りに満ちてい
た。
何もかも家康は不満だった。
戦いに勝利はしたが、三成はまだ逃亡して
いる。なによりも三男の秀忠が、とうとう最
後まで合戦に間に合わなかった。
この戦いは、後継者に選んだ秀忠の働きで
一気に片をつけ、徳川家の力を思い知らせた
うえで、天下に徳川の世になたことを号令し
てこそ意味がある。その段取りが全て狂った。
もとはといえば、自分が家臣をせきたてる
ような発言をして勝利への欲をかきたて、秀
忠の到着を待てなかったのが原因だが、年の
せいか、気が短くなっていることに、この老
人は気づいていなかった。
家康は、お祭り騒ぎで気が緩んだ諸大名の
姿を見てため息をついた。そして、よく見る
と秀秋の姿がそこにはなかった。
(そういえば、秀秋はまだ挨拶に来てないが、
どこにいるのか)
秀秋は、関ヶ原から退去するとすぐに、三
成の集めた膨大な軍資金を領国へ持ち帰るた
めの準備を進めていたのだ。
家康は、家臣を呼んで秀秋を探しに行かせ
た。それと入れ替わるように別の家臣が来て、
家康のもとにひざまずいて告げた。
「秀忠様がご到着なさいました」
家康が今、一番聞きたくない名だった。
「わしは会わん」
家康の怒りを感じた家臣は、一礼して、そっ
とその場を退いた。
家康は、怒りと情けなさに地団駄を踏んだ。
しばらくすると、諸大名がざわつき始めた。
怒りが少し治まりかけた家康の耳に、諸大
名のざわめきが聞こえ、気になって皆が顔を
向けている方を見て、瞬間に表情が凍りつい
た。
「何じゃ、あれは」
それは、騎馬隊が整然と列を連ねて近づい
てくる様子だった。その数、三百騎。
騎馬隊の先頭には、まだ鎧を身にまとった
ままの秀秋がいた。
皆、一瞬にして酔いが醒め、身構えた。
家康は恐怖で顔が引きつった。
(秀秋が、何を……)
秀秋は騎馬隊を停め、自分一人、馬から降
りると、家康の側にゆっくり近づいてひざま
ずいた。
「家康様、まずは合戦の大勝利、おめでとう
ございます。しかしながら、いまだ三成が逃
亡して行方が知れず、その追討と三成の居城、
佐和山城攻めの先鋒を、この秀秋にお申しつ
けください。どうか、伏見城攻めと、こたび
は命令を聞かず出陣した罪滅ぼしの機会をお
与えください」
家康は、合戦に遅刻した秀忠や諸大名の気
の緩みとは対照的な、秀秋のそつのない態度
に涙を流して感激した。
「秀秋殿、よくぞ申された。よろしく頼む」
しかし、心には不安が渦巻いていた。
(徳川家はいずれ、こいつに滅ぼされる)
秀秋は、一礼して立つとすばやく騎乗し、
馬を走らせた。それに続いて騎馬隊も、秀秋
を守るようにつき従い去って行った。
あ然として見つめるしかない諸大名。
家康の目が、企みの目に変わった。
(あれが我が子ならばのぉ。ほしいことよ。
災いの芽は摘まねばなるまい)
この行動で秀秋は、家康に気づかれること
もなく、三成の軍資金を領国に持ち帰ること
ができた。
三成が逃亡し、主のいなくなった陣屋は荒
れ果て、つかの間の勝利に沸いた残像が消え
ていった。
家康は陣中に少しとどまり、お茶を飲もう
とするが、手が震えて定まらず、やっとのこ
とで飲んだ。
(かっ、勝った。これが惺窩が秀秋に伝授し
た兵法か。しかし、それを実践したあの小僧、
恐ろしい奴じゃ)
家康は合戦の後、藤川の高地にあった大谷
吉継の陣屋に移動し、諸大名の拝謁に応じた。
集まった諸大名は鎧を脱ぎ、酒を浴びるよ
うに飲み、誰もが、あわや負け戦からの勝利
に酔いしれていた。
家康は、次から次へと諸大名の祝辞を受け、
それに満面の笑みで応えてねぎらった。
「皆、無事でなによりじゃ。皆のおかげで、
大勝利することができた。ありがとうな。あ
りがとう。ありがとう」
頭を下げる家康に、一同は平伏すと、天下
を取った家康に喝采の声を上げ、また騒ぎ出
した。
満足そうな家康だが、目は怒りに満ちてい
た。
何もかも家康は不満だった。
戦いに勝利はしたが、三成はまだ逃亡して
いる。なによりも三男の秀忠が、とうとう最
後まで合戦に間に合わなかった。
この戦いは、後継者に選んだ秀忠の働きで
一気に片をつけ、徳川家の力を思い知らせた
うえで、天下に徳川の世になたことを号令し
てこそ意味がある。その段取りが全て狂った。
もとはといえば、自分が家臣をせきたてる
ような発言をして勝利への欲をかきたて、秀
忠の到着を待てなかったのが原因だが、年の
せいか、気が短くなっていることに、この老
人は気づいていなかった。
家康は、お祭り騒ぎで気が緩んだ諸大名の
姿を見てため息をついた。そして、よく見る
と秀秋の姿がそこにはなかった。
(そういえば、秀秋はまだ挨拶に来てないが、
どこにいるのか)
秀秋は、関ヶ原から退去するとすぐに、三
成の集めた膨大な軍資金を領国へ持ち帰るた
めの準備を進めていたのだ。
家康は、家臣を呼んで秀秋を探しに行かせ
た。それと入れ替わるように別の家臣が来て、
家康のもとにひざまずいて告げた。
「秀忠様がご到着なさいました」
家康が今、一番聞きたくない名だった。
「わしは会わん」
家康の怒りを感じた家臣は、一礼して、そっ
とその場を退いた。
家康は、怒りと情けなさに地団駄を踏んだ。
しばらくすると、諸大名がざわつき始めた。
怒りが少し治まりかけた家康の耳に、諸大
名のざわめきが聞こえ、気になって皆が顔を
向けている方を見て、瞬間に表情が凍りつい
た。
「何じゃ、あれは」
それは、騎馬隊が整然と列を連ねて近づい
てくる様子だった。その数、三百騎。
騎馬隊の先頭には、まだ鎧を身にまとった
ままの秀秋がいた。
皆、一瞬にして酔いが醒め、身構えた。
家康は恐怖で顔が引きつった。
(秀秋が、何を……)
秀秋は騎馬隊を停め、自分一人、馬から降
りると、家康の側にゆっくり近づいてひざま
ずいた。
「家康様、まずは合戦の大勝利、おめでとう
ございます。しかしながら、いまだ三成が逃
亡して行方が知れず、その追討と三成の居城、
佐和山城攻めの先鋒を、この秀秋にお申しつ
けください。どうか、伏見城攻めと、こたび
は命令を聞かず出陣した罪滅ぼしの機会をお
与えください」
家康は、合戦に遅刻した秀忠や諸大名の気
の緩みとは対照的な、秀秋のそつのない態度
に涙を流して感激した。
「秀秋殿、よくぞ申された。よろしく頼む」
しかし、心には不安が渦巻いていた。
(徳川家はいずれ、こいつに滅ぼされる)
秀秋は、一礼して立つとすばやく騎乗し、
馬を走らせた。それに続いて騎馬隊も、秀秋
を守るようにつき従い去って行った。
あ然として見つめるしかない諸大名。
家康の目が、企みの目に変わった。
(あれが我が子ならばのぉ。ほしいことよ。
災いの芽は摘まねばなるまい)
この行動で秀秋は、家康に気づかれること
もなく、三成の軍資金を領国に持ち帰ること
ができた。
2013年7月4日木曜日
逆転勝利
今まで逃げ腰だった小早川の小隊が集結し、
秀秋を中央にして両横に広がって整列した。
その一瞬、時が止まったように静寂に包まれ、
大谷隊は凍りついたように動かなくなった。
秀秋は赤座の方に目をやった。
少しの間があって、大谷吉継の側にいた湯
浅五郎の「あっ」という声が響いた。そこで
やっと吉継は異変を感じ、声を上げた。
「何があった」
この時、赤座は小早川隊の動きに状況がの
みこめ、叫んでいた。
「今だ。大谷を攻めよ」
それに続いて小川、朽木、脇坂の部隊も、
大谷隊の背後に襲いかかった。
吉継は何が起こっているのか、まだ把握で
きなかった。
「何だ」
大谷隊は背後から崩れるように消滅してい
く。
秀秋は、複雑な気持ちで吉継を見ていた。
そして、情けを断ち切るため面頬を着け、側
にいた従者から槍を受け取った。その槍を高
く掲げて合図をだし、全部隊を大谷隊にぶつ
けた。
吉継の乗った御輿は、混乱の中から湯浅五
郎の先導できりぬけるのがやっとだった。
「負けたのか。秀秋、どんな手を使った」
吉継は負けた悔しさよりも、秀秋の戦いぶ
りに心を揺さぶられ、興味がわいた。
(じかに見たかったのぅ)
そう悔やみながら、逃れた吉継は、御輿か
ら降りると自刃して果てた。
秀秋は、大谷隊の崩れていくのを確認する
と、その勢いのまま西軍の島津隊に向かうよ
う叫んだ。
「島津を攻めよ。われに続け」
その途中、稲葉、杉原に、東軍が苦戦して
いた西軍の総大将、宇喜多秀家の部隊への攻
撃に加勢するよう合図を送った。
東軍は、大谷隊が総崩れになると気勢をあ
げて西軍に襲いかかった。
火箭での攻撃により合戦をこう着状態にし
た島津隊に、苦しめられた東軍の井伊直政、
松平忠吉、本多忠勝らの部隊が次々と押し寄
せる。そこに秀秋のいる小早川隊の本隊も加
わり、島津隊を包囲していった。
島津隊は、三方を東軍に囲まれ、背後は越
えられない山で後退できず、逃げ場を失った。
苦笑いして島津義弘が一言つぶやいた。
「ここが潮時か」
それと同時に島津部隊に号令をかけた。
「よーし、残った火箭を発射後、突っ込む。
全員、わしの後に続け。発射」
その声を合図に、残った火箭がすべて同時
に発射された。すると火箭は、東軍の一隊に
飛び込んで炸裂した。そこにいた将兵は業火
に包まれ、身体に火がついて逃げ惑い散らばっ
た。その業火に飛び込むように、島津隊が突
き進んで逃亡をはかった。
秀秋は、総大将として参加した朝鮮出兵で、
島津家の進言により所領転封の恥辱をうけた
ことを思い出し、その悔しさから、我を忘れ
て猛追した。その勢いは誰にも止められなかっ
た。
秀秋の意志が乗り移ったように小早川隊は、
逃げる島津隊を執拗に追った。そして、秀秋
はそのまま関ヶ原を退去するように小早川隊
全隊に合図を送った。
戦では、何が起きるか分からない。特に、
終わりかけの混乱を利用して、家康が小早川
隊を攻撃する可能性もあったからだ。
家康の目の前を、島津隊がかすめて駆け抜
け、その後からすぐに秀秋を先頭に、小早川
隊が駆けていった。
家康がのけぞりながら叫んだ。
「やつを追え」
そして、後ずさりして尻餅をついた。
慌てて駆け寄る家臣に、家康の号令は聞こ
えていなかった。
家康の側にいたアダムスは、日本人の戦い
方の多様さに呆然として、恐れさえ感じてい
た。
戦場を抜け出た島津義弘の甥、豊久は逃げ
る途中で、東軍の部隊に追いつかれ、闘って
討死した。そして、義弘の家臣、阿多盛惇は
義弘に成りすまし、東軍をひきつけて自刃し
た。
幾多の戦で勇猛を轟かせた島津隊の千五百
人の兵の中で最後まで生き残って、領地の薩
摩まで戻れたのは、義弘を含め八十数人とい
う無残な状態だった。
最初から戦っていた部隊が疲れていたとは
いえ、あれだけこう着状態が続いていた戦い
も、小早川隊が出陣して、わずかな時間で東
軍の逆転勝利が決定的になったのだ。
秀秋を中央にして両横に広がって整列した。
その一瞬、時が止まったように静寂に包まれ、
大谷隊は凍りついたように動かなくなった。
秀秋は赤座の方に目をやった。
少しの間があって、大谷吉継の側にいた湯
浅五郎の「あっ」という声が響いた。そこで
やっと吉継は異変を感じ、声を上げた。
「何があった」
この時、赤座は小早川隊の動きに状況がの
みこめ、叫んでいた。
「今だ。大谷を攻めよ」
それに続いて小川、朽木、脇坂の部隊も、
大谷隊の背後に襲いかかった。
吉継は何が起こっているのか、まだ把握で
きなかった。
「何だ」
大谷隊は背後から崩れるように消滅してい
く。
秀秋は、複雑な気持ちで吉継を見ていた。
そして、情けを断ち切るため面頬を着け、側
にいた従者から槍を受け取った。その槍を高
く掲げて合図をだし、全部隊を大谷隊にぶつ
けた。
吉継の乗った御輿は、混乱の中から湯浅五
郎の先導できりぬけるのがやっとだった。
「負けたのか。秀秋、どんな手を使った」
吉継は負けた悔しさよりも、秀秋の戦いぶ
りに心を揺さぶられ、興味がわいた。
(じかに見たかったのぅ)
そう悔やみながら、逃れた吉継は、御輿か
ら降りると自刃して果てた。
秀秋は、大谷隊の崩れていくのを確認する
と、その勢いのまま西軍の島津隊に向かうよ
う叫んだ。
「島津を攻めよ。われに続け」
その途中、稲葉、杉原に、東軍が苦戦して
いた西軍の総大将、宇喜多秀家の部隊への攻
撃に加勢するよう合図を送った。
東軍は、大谷隊が総崩れになると気勢をあ
げて西軍に襲いかかった。
火箭での攻撃により合戦をこう着状態にし
た島津隊に、苦しめられた東軍の井伊直政、
松平忠吉、本多忠勝らの部隊が次々と押し寄
せる。そこに秀秋のいる小早川隊の本隊も加
わり、島津隊を包囲していった。
島津隊は、三方を東軍に囲まれ、背後は越
えられない山で後退できず、逃げ場を失った。
苦笑いして島津義弘が一言つぶやいた。
「ここが潮時か」
それと同時に島津部隊に号令をかけた。
「よーし、残った火箭を発射後、突っ込む。
全員、わしの後に続け。発射」
その声を合図に、残った火箭がすべて同時
に発射された。すると火箭は、東軍の一隊に
飛び込んで炸裂した。そこにいた将兵は業火
に包まれ、身体に火がついて逃げ惑い散らばっ
た。その業火に飛び込むように、島津隊が突
き進んで逃亡をはかった。
秀秋は、総大将として参加した朝鮮出兵で、
島津家の進言により所領転封の恥辱をうけた
ことを思い出し、その悔しさから、我を忘れ
て猛追した。その勢いは誰にも止められなかっ
た。
秀秋の意志が乗り移ったように小早川隊は、
逃げる島津隊を執拗に追った。そして、秀秋
はそのまま関ヶ原を退去するように小早川隊
全隊に合図を送った。
戦では、何が起きるか分からない。特に、
終わりかけの混乱を利用して、家康が小早川
隊を攻撃する可能性もあったからだ。
家康の目の前を、島津隊がかすめて駆け抜
け、その後からすぐに秀秋を先頭に、小早川
隊が駆けていった。
家康がのけぞりながら叫んだ。
「やつを追え」
そして、後ずさりして尻餅をついた。
慌てて駆け寄る家臣に、家康の号令は聞こ
えていなかった。
家康の側にいたアダムスは、日本人の戦い
方の多様さに呆然として、恐れさえ感じてい
た。
戦場を抜け出た島津義弘の甥、豊久は逃げ
る途中で、東軍の部隊に追いつかれ、闘って
討死した。そして、義弘の家臣、阿多盛惇は
義弘に成りすまし、東軍をひきつけて自刃し
た。
幾多の戦で勇猛を轟かせた島津隊の千五百
人の兵の中で最後まで生き残って、領地の薩
摩まで戻れたのは、義弘を含め八十数人とい
う無残な状態だった。
最初から戦っていた部隊が疲れていたとは
いえ、あれだけこう着状態が続いていた戦い
も、小早川隊が出陣して、わずかな時間で東
軍の逆転勝利が決定的になったのだ。
2013年7月3日水曜日
激突
もはや西軍と東軍の合戦は勝敗が決まり、
新たに西軍と小早川隊の合戦が始まろうとし
ていた。
三成が勝利を確信して、顔をほころばせた
その時、松尾山から小早川隊の大行列が、ゆっ
くりとふもとに降りて来るのが見えた。
御輿に乗った大谷吉継の側で、目の代わり
をしていた湯浅五郎が叫んだ。
「ああっ、動いた」
戦場で動こうとしなかった諸大名も、松尾
山から小早川隊が、大蛇のように蛇行して、
不気味にゆっくりと降りてくるのを凝視した。
戦っていた将兵の中にも気づく者がいて一
瞬、動きが止まった。
三成は目を見開き、ただ立ち尽くすだけだっ
た。
小早川隊は松尾山のふもとに、秀秋の本隊、
稲葉、杉原、岩見、平岡の各小隊ごとに整列
して陣形を整えた。そして、稲葉の小隊が先
陣をきって走り出した。
赤座直保、小川祐忠、脇坂安治、そして、
その側に陣取って、この直前に寝返ることを
家康に伝えた朽木元綱の四隊は、自分達が攻
撃されると思い、逃げ腰で後退りした。
脇坂が狼狽して叫んだ。
「退け、あ、いや留まれ」
吉継は湯浅五郎に秀秋の様子を聞くと苦笑
した。
(やはり攻めて来たか)
吉継があらかじめ秀秋を説得すれば味方し
たかもしれないが、それでは家康に全ての計
画がばれてしまう恐れがあった。それで打ち
明けることができず、自らが家康に近づいて
いたことが、自分を慕う秀秋に影響したので
はないかと悔やんだ。しかし、こうなっては
全力で戦い、秀秋を退けるのみと心を鬼にし
た。
先陣をきって正面から突撃する稲葉の小隊
に応戦する大谷隊が混じりあう。
大谷隊の命を賭けた奮戦に対して、稲葉の
小隊は防戦した。
大谷隊の将兵がうなる。
「ひるむな。突っ込め」
稲葉が頃合いを見て合図した。
「さがれ、退却、退却」
稲葉の小隊は、後込みしながら逃げる。
それに勢いづいた大谷隊は、一斉に追いす
がった。
その頃、松野の別部隊は、森の木々に隠れ
て、大谷隊の背後に回りこもうとしていた。
稲葉の小隊が引き下がったのを受けて、杉
原の小隊が押し出す。それを迎え撃つ大谷隊。
しばらくすると杉原の小隊も弱腰で退いて
いく。その様子を聞いた吉継は秀秋の哀れを
感じた。
(兵の数に頼って正面攻撃をするなど、秀秋
はまだまだ未熟者であったか)
岩見の小隊も反撃に加わるが、劣勢のまま
退く。それに代わって平岡の小隊が突っ込ん
でいった。そして、秀秋の本隊も後に続いて
攻めた。この時、秀秋は顔を守る面頬をあえ
て着けなかった。それは、自分の表情を見て、
これが策略だと大谷隊の誰かに気づいてほし
いと思ったからだ。しかし、死にもの狂いの
大谷隊の誰一人として策略に感づく者はいな
かった。
家康は、命令を聞かず出陣した小早川隊の
攻撃の仕方に歯ぎしりをした。
「わしの命令も聞かず出陣しおって。その上、
何じゃあれは。なぜ総攻撃せんのじゃ。あー
あ、押されておるではないか。せっかくの手
柄をふいにしただけか。まあよい。これで少
しは豊臣の者どもを黙らせることができるわ
い」
小早川隊は、一方的に大谷隊に追い回され
始めた。
それでもなお、大谷隊は小早川隊を攻め続
け、赤座、小川、脇坂、朽木の部隊が背後に
なっていることに気がづかなかった。
新たに西軍と小早川隊の合戦が始まろうとし
ていた。
三成が勝利を確信して、顔をほころばせた
その時、松尾山から小早川隊の大行列が、ゆっ
くりとふもとに降りて来るのが見えた。
御輿に乗った大谷吉継の側で、目の代わり
をしていた湯浅五郎が叫んだ。
「ああっ、動いた」
戦場で動こうとしなかった諸大名も、松尾
山から小早川隊が、大蛇のように蛇行して、
不気味にゆっくりと降りてくるのを凝視した。
戦っていた将兵の中にも気づく者がいて一
瞬、動きが止まった。
三成は目を見開き、ただ立ち尽くすだけだっ
た。
小早川隊は松尾山のふもとに、秀秋の本隊、
稲葉、杉原、岩見、平岡の各小隊ごとに整列
して陣形を整えた。そして、稲葉の小隊が先
陣をきって走り出した。
赤座直保、小川祐忠、脇坂安治、そして、
その側に陣取って、この直前に寝返ることを
家康に伝えた朽木元綱の四隊は、自分達が攻
撃されると思い、逃げ腰で後退りした。
脇坂が狼狽して叫んだ。
「退け、あ、いや留まれ」
吉継は湯浅五郎に秀秋の様子を聞くと苦笑
した。
(やはり攻めて来たか)
吉継があらかじめ秀秋を説得すれば味方し
たかもしれないが、それでは家康に全ての計
画がばれてしまう恐れがあった。それで打ち
明けることができず、自らが家康に近づいて
いたことが、自分を慕う秀秋に影響したので
はないかと悔やんだ。しかし、こうなっては
全力で戦い、秀秋を退けるのみと心を鬼にし
た。
先陣をきって正面から突撃する稲葉の小隊
に応戦する大谷隊が混じりあう。
大谷隊の命を賭けた奮戦に対して、稲葉の
小隊は防戦した。
大谷隊の将兵がうなる。
「ひるむな。突っ込め」
稲葉が頃合いを見て合図した。
「さがれ、退却、退却」
稲葉の小隊は、後込みしながら逃げる。
それに勢いづいた大谷隊は、一斉に追いす
がった。
その頃、松野の別部隊は、森の木々に隠れ
て、大谷隊の背後に回りこもうとしていた。
稲葉の小隊が引き下がったのを受けて、杉
原の小隊が押し出す。それを迎え撃つ大谷隊。
しばらくすると杉原の小隊も弱腰で退いて
いく。その様子を聞いた吉継は秀秋の哀れを
感じた。
(兵の数に頼って正面攻撃をするなど、秀秋
はまだまだ未熟者であったか)
岩見の小隊も反撃に加わるが、劣勢のまま
退く。それに代わって平岡の小隊が突っ込ん
でいった。そして、秀秋の本隊も後に続いて
攻めた。この時、秀秋は顔を守る面頬をあえ
て着けなかった。それは、自分の表情を見て、
これが策略だと大谷隊の誰かに気づいてほし
いと思ったからだ。しかし、死にもの狂いの
大谷隊の誰一人として策略に感づく者はいな
かった。
家康は、命令を聞かず出陣した小早川隊の
攻撃の仕方に歯ぎしりをした。
「わしの命令も聞かず出陣しおって。その上、
何じゃあれは。なぜ総攻撃せんのじゃ。あー
あ、押されておるではないか。せっかくの手
柄をふいにしただけか。まあよい。これで少
しは豊臣の者どもを黙らせることができるわ
い」
小早川隊は、一方的に大谷隊に追い回され
始めた。
それでもなお、大谷隊は小早川隊を攻め続
け、赤座、小川、脇坂、朽木の部隊が背後に
なっていることに気がづかなかった。
2013年7月2日火曜日
陣羽織の意味
杉原、岩見、平岡も不安がないわけではな
かった。
遅れてやって来た稲葉正成が話し合いに加
わった。
秀秋は、皆の思いを汲んで言った。
「たとえこの戦で家康殿が負けても、家康殿
は過ちから学んで、また挑んでくる。再び長
い乱世になれば、それこそ民衆の心は豊臣家
から離れ、後世に恨みを残すだけだ。今、こ
こで戦を治め、乱世を終わらせる道を選べば、
太閤様の名誉も保つことができよう。それに、
われらの勝ち取った領地で、太閤様の意思を
継ぐこともできるのではないか」
皆の目に輝きが戻り、深くうなずいた。
秀秋は立ち上がり、力強く命令した。
「稲葉、杉原、岩見、平岡は正面から攻めよ。
松野は大谷隊の背後に回れ」
「はっ」
一同はすばやく散り、攻撃順などの役割を
小隊に振り分けると、それぞれの小隊の雄叫
びが、方々であがった。
戦いが始まって四時間が経とうとしていた。
秀秋は将兵の待機している曲輪に向かった。
そこにいた稲葉正成に目配せして軍資金の移
動をしていた小隊が戻たかを確認した。
正成がうなずいたので軍資金の運び出しが
済んだことが分かった。そこで、戦闘準備を
すませてじっと待っていた将兵の前に立った。
秀秋に初陣の時のあどけなさはなく、巻狩
りを装った軍事演習で日焼けした顔は、野性
味を帯び、威厳さえ漂わせていた。
身分の違いに関係なく取り立てられた将兵
の顔は皆、高揚していた。
秀秋が現れると、興奮していた将兵は、し
ばらくざわついていたが、徐々に静まり返っ
ていった。
秀秋は将兵の緊張を解きほぐすように静か
に話し始めた。
「彼の地、明には桃源郷の物語がある。河で
釣りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い
込み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。
そこにいた村人は他の国のことは知らず、戦
はなく、自給自足で食うものにも困らない。
誰が上、誰が下と争うこともない。これが桃
源郷だ。太閤様も俺も、もとはみんなと同じ
百姓の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。
親兄弟、子らが生きたいように生き、飢える
ことのない都を皆と一緒に築きたいと思う。
そのために俺はこの身を捨てて戦う」
それから秀秋は、側にいた兵卒に持たせて
いた陣羽織を受け取ると、高々と掲げ、皆に
見せた。
その陣羽織は、この時のために新調された
もので、燃えるように鮮やかな緋色の猩々緋
羅紗地に、背中は諏訪明神の違い鎌模様を大
きくあしらっていた。
秀秋は陣羽織を握り締め怒りを込め、ひと
きわ大きな声で言い放った。
「この緋色は、朝鮮で流した血の色じゃ。家
康も三成もこの血の犠牲をなんと思うて争う
のか。われらは田畑を血で染め、大地を汚す
ために生きておるのか。それとも、この鎌を
握りしめ、田畑を耕し、大地を活かすのか。
世に問うて今こそ天下を耕す時ぞ」
この言葉に将兵の中には感涙する者もあり、
全員の心がひとつになった。そして、いっせ
いに声が上がり、気合が入った。
秀秋はさらに強い口調になっていった。
「われらは小隊に分かれ、大谷隊を正面から
討つ。だたし、大谷隊の側にいる赤座、小川、
脇坂は敵ではない。大谷隊を誘い出し、この
三隊に背後を突かせる。われらは餌のごとく、
うろたえ逃げまわればいい。時が来るまで血
気にはやって功名を得ようとするな。天恵を
得たければ、われに続け」
「おおぅ」
全員の雄叫びとともに各自の持ち場に散っ
た。
秀秋は陣羽織を着ると、馬に騎乗し、空を
見上げた。
いつの間にか空は晴れていた。
(鷹狩りにはもってこいだなぁ)
機敏に戦闘準備を整えていく小早川隊に日
が照り返していた。
その頃、戦いがこう着状態になり、家康の
陣にいた異国人がざわつき始めた。
アダムスは家康の後ろ姿を見た。
圧倒的な勢力でいまだに勝てないふがいな
さに、家康は落胆の色をみせていた。
「わしの負けじゃ。じゃが、これで終わった
わけじゃない。もう一度、秀忠と合流して出
直そう」
家臣たちも皆、自分たちの犯した失策にう
なだれていた。
一方、三成の陣営では、家康の逃亡しそう
な気配が見えると歓声が上がった。
「やった。家康に勝った」
うなだれた家康が退却の準備を始めようと
した時、伝令が現れ駆け寄った。
「小早川秀秋殿がご出陣されます」
その言葉に、家康の顔色が赤く染まっていっ
た。
この時、家康の脳裏に二つの考えが渦巻い
た。
一つは、自分に加勢して西軍に攻め込む。
この場合、合戦に勝つと豊臣家の発言権が増
してしまう。合戦に負けると西軍の勢いがさ
らに増すだろう。
もう一つは、自分を裏切って、こちらに攻
めてくる。この場合、徳川家は一瞬に消滅す
るだろう。
どちらにしても徳川家にはなんの利益にも
ならない。
なんとしても秀秋を松尾山城に留めておか
なければならない。
家康は、怒りをこめて叫んだ。
「なんじゃと、もう遅いわ。あの小僧、わし
を馬鹿にしおって。誰か、誰か松尾山に鉄砲
を撃ちかけい。わしが秀忠を連れて戻ってく
るまで、小早川に城で籠城しておれと知らせ
るのじゃ」
すぐに松尾山のふもとに布陣していた徳川
軍の鉄砲隊に命令が伝わり、松尾山に向けて
一斉射撃がおこなわれた。
その銃声を聞いた松尾山の小早川隊は、す
でに出陣の準備が整い、戦場に向かおうとし
ていた。
秀秋のもとに兵卒が駆けつけた。
「家康様から、出陣を思いとどまり、籠城す
るようにとのご命令です。家康様は、すぐに
秀忠様をつれて戻ってくるとのことです」
秀秋は少し考えたが、全軍に出陣命令を下
した。
このまま籠城すれば、西軍の総攻撃にあう。
そして、秀忠の部隊が来れば、せっかく無血
入城した手柄がふいになる。しかし今、出陣
すれば命令違反を問われるかもしれない。
どちらにしても良いことはないのなら、出
陣してこの合戦を終わらせることを優先する
べきだと秀秋は考えた。
いつか藤原惺窩に教わった孫子の兵法にあ
る「兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを
睹(み)ざるなり(戦は短期でするものだと
よく言われ、手をつくして時間をかけるもの
ではない)」を思い出していた。
かった。
遅れてやって来た稲葉正成が話し合いに加
わった。
秀秋は、皆の思いを汲んで言った。
「たとえこの戦で家康殿が負けても、家康殿
は過ちから学んで、また挑んでくる。再び長
い乱世になれば、それこそ民衆の心は豊臣家
から離れ、後世に恨みを残すだけだ。今、こ
こで戦を治め、乱世を終わらせる道を選べば、
太閤様の名誉も保つことができよう。それに、
われらの勝ち取った領地で、太閤様の意思を
継ぐこともできるのではないか」
皆の目に輝きが戻り、深くうなずいた。
秀秋は立ち上がり、力強く命令した。
「稲葉、杉原、岩見、平岡は正面から攻めよ。
松野は大谷隊の背後に回れ」
「はっ」
一同はすばやく散り、攻撃順などの役割を
小隊に振り分けると、それぞれの小隊の雄叫
びが、方々であがった。
戦いが始まって四時間が経とうとしていた。
秀秋は将兵の待機している曲輪に向かった。
そこにいた稲葉正成に目配せして軍資金の移
動をしていた小隊が戻たかを確認した。
正成がうなずいたので軍資金の運び出しが
済んだことが分かった。そこで、戦闘準備を
すませてじっと待っていた将兵の前に立った。
秀秋に初陣の時のあどけなさはなく、巻狩
りを装った軍事演習で日焼けした顔は、野性
味を帯び、威厳さえ漂わせていた。
身分の違いに関係なく取り立てられた将兵
の顔は皆、高揚していた。
秀秋が現れると、興奮していた将兵は、し
ばらくざわついていたが、徐々に静まり返っ
ていった。
秀秋は将兵の緊張を解きほぐすように静か
に話し始めた。
「彼の地、明には桃源郷の物語がある。河で
釣りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い
込み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。
そこにいた村人は他の国のことは知らず、戦
はなく、自給自足で食うものにも困らない。
誰が上、誰が下と争うこともない。これが桃
源郷だ。太閤様も俺も、もとはみんなと同じ
百姓の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。
親兄弟、子らが生きたいように生き、飢える
ことのない都を皆と一緒に築きたいと思う。
そのために俺はこの身を捨てて戦う」
それから秀秋は、側にいた兵卒に持たせて
いた陣羽織を受け取ると、高々と掲げ、皆に
見せた。
その陣羽織は、この時のために新調された
もので、燃えるように鮮やかな緋色の猩々緋
羅紗地に、背中は諏訪明神の違い鎌模様を大
きくあしらっていた。
秀秋は陣羽織を握り締め怒りを込め、ひと
きわ大きな声で言い放った。
「この緋色は、朝鮮で流した血の色じゃ。家
康も三成もこの血の犠牲をなんと思うて争う
のか。われらは田畑を血で染め、大地を汚す
ために生きておるのか。それとも、この鎌を
握りしめ、田畑を耕し、大地を活かすのか。
世に問うて今こそ天下を耕す時ぞ」
この言葉に将兵の中には感涙する者もあり、
全員の心がひとつになった。そして、いっせ
いに声が上がり、気合が入った。
秀秋はさらに強い口調になっていった。
「われらは小隊に分かれ、大谷隊を正面から
討つ。だたし、大谷隊の側にいる赤座、小川、
脇坂は敵ではない。大谷隊を誘い出し、この
三隊に背後を突かせる。われらは餌のごとく、
うろたえ逃げまわればいい。時が来るまで血
気にはやって功名を得ようとするな。天恵を
得たければ、われに続け」
「おおぅ」
全員の雄叫びとともに各自の持ち場に散っ
た。
秀秋は陣羽織を着ると、馬に騎乗し、空を
見上げた。
いつの間にか空は晴れていた。
(鷹狩りにはもってこいだなぁ)
機敏に戦闘準備を整えていく小早川隊に日
が照り返していた。
その頃、戦いがこう着状態になり、家康の
陣にいた異国人がざわつき始めた。
アダムスは家康の後ろ姿を見た。
圧倒的な勢力でいまだに勝てないふがいな
さに、家康は落胆の色をみせていた。
「わしの負けじゃ。じゃが、これで終わった
わけじゃない。もう一度、秀忠と合流して出
直そう」
家臣たちも皆、自分たちの犯した失策にう
なだれていた。
一方、三成の陣営では、家康の逃亡しそう
な気配が見えると歓声が上がった。
「やった。家康に勝った」
うなだれた家康が退却の準備を始めようと
した時、伝令が現れ駆け寄った。
「小早川秀秋殿がご出陣されます」
その言葉に、家康の顔色が赤く染まっていっ
た。
この時、家康の脳裏に二つの考えが渦巻い
た。
一つは、自分に加勢して西軍に攻め込む。
この場合、合戦に勝つと豊臣家の発言権が増
してしまう。合戦に負けると西軍の勢いがさ
らに増すだろう。
もう一つは、自分を裏切って、こちらに攻
めてくる。この場合、徳川家は一瞬に消滅す
るだろう。
どちらにしても徳川家にはなんの利益にも
ならない。
なんとしても秀秋を松尾山城に留めておか
なければならない。
家康は、怒りをこめて叫んだ。
「なんじゃと、もう遅いわ。あの小僧、わし
を馬鹿にしおって。誰か、誰か松尾山に鉄砲
を撃ちかけい。わしが秀忠を連れて戻ってく
るまで、小早川に城で籠城しておれと知らせ
るのじゃ」
すぐに松尾山のふもとに布陣していた徳川
軍の鉄砲隊に命令が伝わり、松尾山に向けて
一斉射撃がおこなわれた。
その銃声を聞いた松尾山の小早川隊は、す
でに出陣の準備が整い、戦場に向かおうとし
ていた。
秀秋のもとに兵卒が駆けつけた。
「家康様から、出陣を思いとどまり、籠城す
るようにとのご命令です。家康様は、すぐに
秀忠様をつれて戻ってくるとのことです」
秀秋は少し考えたが、全軍に出陣命令を下
した。
このまま籠城すれば、西軍の総攻撃にあう。
そして、秀忠の部隊が来れば、せっかく無血
入城した手柄がふいになる。しかし今、出陣
すれば命令違反を問われるかもしれない。
どちらにしても良いことはないのなら、出
陣してこの合戦を終わらせることを優先する
べきだと秀秋は考えた。
いつか藤原惺窩に教わった孫子の兵法にあ
る「兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを
睹(み)ざるなり(戦は短期でするものだと
よく言われ、手をつくして時間をかけるもの
ではない)」を思い出していた。
2013年7月1日月曜日
軍資金移動
秀秋はこれまで運命に逆らえなかった。
生まれた時から織田信長の生まれ変わりを
演じて、自我を出すことができず、その上、
養子に次々と出され、居場所を見失うことも
あった。
まるでタンポポの種が風に飛ばされて落ち、
その場所がどんな所でも咲かなければならな
いように、与えられた条件を受け入れるしか
なかったのだ。
(どうせ捨てるものは何もない)
秀忠の部隊が到着して自分の出番がなく、
命が尽きるのもいいと思っていた。
「それより正成。あれはどうなった」
秀秋は、三成の持ち込んだ軍資金がどうなっ
ているのか気になっていた。
「はっ、それですが、私が見ただけでも十万
両はあり、一旦、埋め戻して警戒させており
ますが、奥平が退去しましたので、すぐに運
び出させます。しかし、かなり時がかかると
思います」
「十万両以上もあるのか。それならやむおえ
んが、できるだけ急いでくれ。われらの出番
があるかもしれん。そうなれば出陣の好機を
逃すと取り返しのつかぬことになる。他の小
隊も使ってよいが、家康からつけられた浪人
どもには気づかれぬようにな」
「はっ」
稲葉はすぐに退き、軍資金のある曲輪に待
機していた小隊に、手はずどおり運び出すよ
うに指示した。
こう着状態が続く中でも、三成は陣中にどっ
しりとかまえ、微動だにしない。対する家康
は、陣中をうろちょろして、落ち着きがなかっ
た。
「秀忠はまだか。何で誰も動かんのじゃ」
秀秋のもとに家康の使者がやって来て、家
康の言葉が伝えられた。
「秀忠様は、ただいま関ヶ原へ向かわれてい
ますが、到着が遅れております。秀秋殿には
疑念がおありのようですが、大殿に二心など
ありません。秀秋殿にはかねてより、備前と
美作を封ずると申していることに偽りなく、
早急のご出陣をお願い申し上げます」
しばらくすると、東軍の内情を探っていた
小早川隊の兵卒が秀秋のもとに戻って告げた。
「徳川秀忠殿は、上田城攻めにてこずり、現
在は関ヶ原に向かっています。しかし、悪天
候で信濃に足止めされ、到着が遅れています」
これで秀忠がいないのは、家康の策略では
ないことがはっきりした。
秀秋は杉原重治、松野重元、岩見重太郎、
平岡頼勝を呼んで言った。
「秀忠は来ない。今、出陣すればふもとで警
戒している大谷隊と正面からぶつかることに
なる」
四人は、秀秋が大谷吉継を兄のように慕っ
ていることを知っていた。
秀秋は地形図の駒を指差して話した。
「皆も知っておろうが、この赤座殿、小川殿、
脇坂殿は家康殿に内通している。そこでだ、
大谷隊の注意をこちらに向けさせれば、この
三隊が側面を攻めよう」
松尾山のふもとで戦っている大谷隊の斜め
前方には、家康に内通しているはずの赤座直
保、小川祐忠、脇坂安治の三隊が東軍の不意
打ちを警戒するフリをして待機していた。そ
の中でも赤座は、秀秋が以前、越前・北ノ庄
に転封になった頃からの知り合いで、小川、
脇坂らと朽木元綱を説得して大谷隊を攻撃す
る機会を狙っていたが、大谷隊の奮戦と威圧
で、ヘビに睨まれたカエルのようにその場を
動くことさえできなかった。
秀秋の考えに岩見は、勇猛な武人らしく反
論した。
「今まで動かなかった三隊など、あてになり
ませぬ。戦で信じられるのは己のみ」
秀秋が自分の考えを話した。
「三隊は今のままでは動けないだろう。そこ
で、われらは小隊に分かれ、一隊ずつ大谷隊
の正面から攻めと退却を繰り返す。そうすれ
ば大谷隊は、われらの部隊の統率がとれてい
ないのは俺の力不足と甘く見て追ってくるは
ずだ。これで三隊は、大谷隊の背後に位置す
ることになり、動くかもしれん。仮に動かな
い時のために、われらの別部隊を背後に回り
込ませればどうだ」
秀秋は合戦を狩りにおきかえて考えていた。
狩りをする時は獲物を追いかけるより、餌
で誘って仕留めるほうが楽だ。
吉継にとって秀秋は、幼い時の未熟さが印
象に残っているはずだから小隊での正面攻撃
という無謀な戦い方をすればあなどり、そこ
に油断ができる。これで小早川軍が餌になり、
吉継を思い通りの場所に動かすことで、赤座、
小川、脇坂の三隊に仕留めさせようと考えた
のである。
話しを聞いていた鉄砲頭の松野の顔色がく
もった。
「これでいいのかの。わしは太閤様に顔向け
できん」
秀秋は、忠義心の強い松野の気持ちを察し
た。
「松野は、態度をはっきり決めることのでき
ない輝元殿や無謀な戦をする秀家殿、その全
てを取り仕切ることのできない三成殿で、天
下が治まると思うか。この場に秀頼様を連れ
てこなければ、豊臣家とは無関係のただの殺
し合いにしかならない。その秀頼様を西軍は
連れて来ることができなかった。それにな、
太閤様は朝鮮での過ちを繰り返した。それを
俺も、ここにおる全ての者が太閤様を止めら
れなかった。三成殿や吉継殿には才覚がある。
その才覚が、太閤様によって間違ったことに
使われていることを知っていたはずだ。それ
でもどうすることもできないのなら、その才
覚はなんの役にもたたない。だからこうして
豊臣家の家臣だった者たちが、不信感を抱き、
仲間どうしが争うことになったのではないの
か」
松野は唇を噛みしめてうなだれた。
生まれた時から織田信長の生まれ変わりを
演じて、自我を出すことができず、その上、
養子に次々と出され、居場所を見失うことも
あった。
まるでタンポポの種が風に飛ばされて落ち、
その場所がどんな所でも咲かなければならな
いように、与えられた条件を受け入れるしか
なかったのだ。
(どうせ捨てるものは何もない)
秀忠の部隊が到着して自分の出番がなく、
命が尽きるのもいいと思っていた。
「それより正成。あれはどうなった」
秀秋は、三成の持ち込んだ軍資金がどうなっ
ているのか気になっていた。
「はっ、それですが、私が見ただけでも十万
両はあり、一旦、埋め戻して警戒させており
ますが、奥平が退去しましたので、すぐに運
び出させます。しかし、かなり時がかかると
思います」
「十万両以上もあるのか。それならやむおえ
んが、できるだけ急いでくれ。われらの出番
があるかもしれん。そうなれば出陣の好機を
逃すと取り返しのつかぬことになる。他の小
隊も使ってよいが、家康からつけられた浪人
どもには気づかれぬようにな」
「はっ」
稲葉はすぐに退き、軍資金のある曲輪に待
機していた小隊に、手はずどおり運び出すよ
うに指示した。
こう着状態が続く中でも、三成は陣中にどっ
しりとかまえ、微動だにしない。対する家康
は、陣中をうろちょろして、落ち着きがなかっ
た。
「秀忠はまだか。何で誰も動かんのじゃ」
秀秋のもとに家康の使者がやって来て、家
康の言葉が伝えられた。
「秀忠様は、ただいま関ヶ原へ向かわれてい
ますが、到着が遅れております。秀秋殿には
疑念がおありのようですが、大殿に二心など
ありません。秀秋殿にはかねてより、備前と
美作を封ずると申していることに偽りなく、
早急のご出陣をお願い申し上げます」
しばらくすると、東軍の内情を探っていた
小早川隊の兵卒が秀秋のもとに戻って告げた。
「徳川秀忠殿は、上田城攻めにてこずり、現
在は関ヶ原に向かっています。しかし、悪天
候で信濃に足止めされ、到着が遅れています」
これで秀忠がいないのは、家康の策略では
ないことがはっきりした。
秀秋は杉原重治、松野重元、岩見重太郎、
平岡頼勝を呼んで言った。
「秀忠は来ない。今、出陣すればふもとで警
戒している大谷隊と正面からぶつかることに
なる」
四人は、秀秋が大谷吉継を兄のように慕っ
ていることを知っていた。
秀秋は地形図の駒を指差して話した。
「皆も知っておろうが、この赤座殿、小川殿、
脇坂殿は家康殿に内通している。そこでだ、
大谷隊の注意をこちらに向けさせれば、この
三隊が側面を攻めよう」
松尾山のふもとで戦っている大谷隊の斜め
前方には、家康に内通しているはずの赤座直
保、小川祐忠、脇坂安治の三隊が東軍の不意
打ちを警戒するフリをして待機していた。そ
の中でも赤座は、秀秋が以前、越前・北ノ庄
に転封になった頃からの知り合いで、小川、
脇坂らと朽木元綱を説得して大谷隊を攻撃す
る機会を狙っていたが、大谷隊の奮戦と威圧
で、ヘビに睨まれたカエルのようにその場を
動くことさえできなかった。
秀秋の考えに岩見は、勇猛な武人らしく反
論した。
「今まで動かなかった三隊など、あてになり
ませぬ。戦で信じられるのは己のみ」
秀秋が自分の考えを話した。
「三隊は今のままでは動けないだろう。そこ
で、われらは小隊に分かれ、一隊ずつ大谷隊
の正面から攻めと退却を繰り返す。そうすれ
ば大谷隊は、われらの部隊の統率がとれてい
ないのは俺の力不足と甘く見て追ってくるは
ずだ。これで三隊は、大谷隊の背後に位置す
ることになり、動くかもしれん。仮に動かな
い時のために、われらの別部隊を背後に回り
込ませればどうだ」
秀秋は合戦を狩りにおきかえて考えていた。
狩りをする時は獲物を追いかけるより、餌
で誘って仕留めるほうが楽だ。
吉継にとって秀秋は、幼い時の未熟さが印
象に残っているはずだから小隊での正面攻撃
という無謀な戦い方をすればあなどり、そこ
に油断ができる。これで小早川軍が餌になり、
吉継を思い通りの場所に動かすことで、赤座、
小川、脇坂の三隊に仕留めさせようと考えた
のである。
話しを聞いていた鉄砲頭の松野の顔色がく
もった。
「これでいいのかの。わしは太閤様に顔向け
できん」
秀秋は、忠義心の強い松野の気持ちを察し
た。
「松野は、態度をはっきり決めることのでき
ない輝元殿や無謀な戦をする秀家殿、その全
てを取り仕切ることのできない三成殿で、天
下が治まると思うか。この場に秀頼様を連れ
てこなければ、豊臣家とは無関係のただの殺
し合いにしかならない。その秀頼様を西軍は
連れて来ることができなかった。それにな、
太閤様は朝鮮での過ちを繰り返した。それを
俺も、ここにおる全ての者が太閤様を止めら
れなかった。三成殿や吉継殿には才覚がある。
その才覚が、太閤様によって間違ったことに
使われていることを知っていたはずだ。それ
でもどうすることもできないのなら、その才
覚はなんの役にもたたない。だからこうして
豊臣家の家臣だった者たちが、不信感を抱き、
仲間どうしが争うことになったのではないの
か」
松野は唇を噛みしめてうなだれた。
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