2013年7月7日日曜日

企みごと

 家康は、伏見城の誰もいない居間で、書物
を見ながら独り言をつぶやいた。
「秀秋を備前と美作に国替えして間もない。
領民の中には、前の領主、秀家を慕うものが
まだ多い。行って、秀秋は西軍の裏切り者と
ふれまわり、まずは領民を離反させよ。秀秋
の家臣、平岡頼勝は、わしが送り込んだ者じゃ。
連絡をとって城内に入り、秀秋に毒を盛れ」
 家康の後ろには床の間があり、そこに掛かっ
ている掛け軸は、家康が三方ヶ原の戦いに敗
れた時に描かせたという頬杖をついた絵だっ
た。
「その毒を盛れば発狂する。一度に多く与え
過ぎず、すぐには殺すな。少しずつ与えて発
狂を長引かせるのじゃ。そうすれば世間は、
秀秋が西軍を裏切り、三成に祟られて狂いだ
したと噂を広めてくれる。それがもとで死ね
ば、誰もわしを疑う者はいないだろう。人を
裏切ると祟られると思えば、徳川家に逆らう
者もいなくなる。分かったな、行け」
 家康の後ろにある掛け軸が風もないのに揺
れた。
 それからすぐ、刺客のひとりが平岡の手引
きで岡山城内に入り、料理番としてしばらく
は秀詮の信頼を得ることに努めた。
 稲葉正成は、新しく入った料理番が、以前
に徳川家に仕えていたことは平岡から知らさ
れていて、そのことになんの疑いも抱いてい
なかった。そのため、料理番は警戒されるこ
ともなく、秀詮の料理を任されるようになっ
た。
 料理番は、秀詮からも信頼を得た頃、秀詮
の料理に阿片を少しずつ混ぜ始めた。
 この当時、阿片のことは日本ではまったく
知られていなかった。
 家康のもとには、関ヶ原の合戦で軍事顧問
となったウイリアム・アダムスが三浦按針(あ
んじん)の名を与えられて家臣となっていた。
 按針は、家康が薬草に詳しいことを知り、
当時では珍しかった阿片が人を狂わせる毒薬
だということを教えた。そこで家康は、密か
に阿片を入手し、刺客に持たせたのだ。
 秀詮が狂いだしても、侍医には原因を調べ
る方法がなく、どう対処していいか分からな
い。まして、家臣や領民に医学の知識などな
く、秀詮が徐々に異常な行動をし始めると、
原因が分からず、ただ恐れるばかりだった。
 こんなことがあると人は、祟りなどの神が
かり的な力としか考えず、それを疑うことも
なかった。
 料理番は、秀詮の発狂が深刻になっていく
のを確認して、仲間達を呼んだ。
 しばらくすると領内に、秀詮の噂が広まり
始めた。
「今度来た新しい殿様が狂いだしたそうな。
なんでも、殿様は関ヶ原の合戦で、西軍を裏
切ったとかで、それがもとで死んだ石田三成
様が恨んで祟っているらしいぞ」
 悪い噂は尾ひれが付いて、あっという間に
広がった。
「殿様は阿呆だから、西軍と東軍のどっちに
味方したほうがいいか分からんようになって、
家康様が鉄砲を撃つと、それに驚き、味方の
西軍を攻めたらしい。負けた大谷吉継様と石
田三成様は、たいそう恨んで死んだそうな。
それで祟られとるんじゃと」
 これを信じ込む者もいたが、多くの者は疑っ
ていた。それは、合戦中に裏切ったというが、
そんな日和見的な行動をする者に家康が領地
を与えることはない。寝返ることは事前に知
らせておかなければ意味がないからだ。また、
疲弊した所領を急速に復興させ、領民の生活
を安定させたことは、領民の誰もが身をもっ
て体験している事実で、このことに恩を感じ
ていたからだ。しかし、秀詮が時々、発狂し
ている事実が明らかになると、次第に噂を信
じる者が増えていった。だが、秀詮の発狂は
芝居だった。
 秀詮は、家康から備前と美作を与えられた
時から警戒していたのだ。