2013年4月14日日曜日

滝川一益

 滝川一益は羽柴秀吉や柴田勝家と並び称さ
れるほど有能で、織田信長に重用されていた。
 天正十年(一五八二)三月の天目山の戦で
は信長の長男、信忠を補佐し、総大将として
武田勝頼を破り、武田氏を滅亡させた。
 その褒美として上野と信濃の一部を拝領し
たが、領地を褒美としてもらうより、茶器の
「珠光小茄子」をほしがるほどで、領地に執
着するそぶりを見せなかった。
 この三ヵ月後に起きた本能寺の変に乗じて、
北条氏直、氏邦らが兵五万六千人で上野に侵
攻してきた。これに対する一益の兵は二万人
足らず。
 一時的には勝利したがその後敗退して本来
の所領である伊勢・長島城に逃げ帰った。
 このことで織田家の今後を決める清洲会議
に出席できなかったとされるが、これ以前、
本能寺の変が起きた直後に北条氏政から一益
へ「本能寺の変が本当に起きたのか」との問
い合わせがあり、一益は氏政へ「もしそれが
事実だとしても疑心を懐かぬように」と知ら
せているほど親しく、一益は北条一族と真剣
に戦う気などなかったのである。
 一益は清洲会議で必ず内紛が起きると読ん
でいたのだ。
 そこで北条一族との戦いを理由に欠席し、
内紛の混乱を利用して漁夫の利を得ようと企
てた。しかし、予想に反して秀吉が三法師を
擁立して、あっさり後見人に収まってしまっ
た。
 天下取りの野望が潰えた一益は、しかたな
く秀吉に味方することを決めた。ただし、一
益は秀吉より十三歳年上だから単に味方にな
ると言っても信用されず、いずれ厄介払いさ
れる可能性があり、それは死を意味していた。
 こういった世代交代の時がいちばん危険な
ことを一益は熟知していた。
 そこで一益は、茶の湯の師匠である千宗易
を介して秀吉と密かに通じておき、表向きは
秀吉に反抗する姿勢を見せて、秀吉に反感を
抱いている者をあぶりだし、それらの者を一
掃する役目を買って出た。
 まずは柴田勝家の甥で、今は勝家の養子に
なっている勝豊が標的となった。
 勝家は清洲会議で信長の妹、お市の方と秀
吉が築城して居城としていた近江の長浜城を
手に入れ、勝豊に長浜城を与えていた。
 秀吉は勝豊が長浜城に入城する時は快く迎
え、宴会まで催した。しかし、いずれは奪い
返したいと思っていた。それは近江が鉄砲の
生産供給地だったからだ。
 この頃、鉄砲は近江と和泉・堺で生産され、
近江商人と堺商人が主に取り扱っていた。
 秀吉の茶頭となった宗易は堺商人の代表な
ので、もう一方の近江商人を手なずければ天
下取りは盤石の態勢となる。
 一益は秀吉が近江をほしがっていることを
察し、勝家、勝豊を焚き付けて秀吉に敵対す
る姿勢を鮮明にさせた。