2013年4月29日月曜日

秀吉の術中にはまる

「宗易、ではわしはどうすればいいと言うの
だ。今さら秀吉に許しを請えと言うのか」
「私がここに伺いましたのは、そのことを申
し上げたかったのです。秀吉様は天下を自分
ひとりのものにしようなどとは考えておられ
ません。多くの方々の力を合わせて、天下を
治めようと考えておられます。秀雄様にも、
そのおひとりになっていただきたいのです。
これは茶の湯にも通じる考え方です。茶室に
集い上下の関係なく茶の湯を楽しむのと同じ
ことです」
「しかし、それでは家康を裏切ることになる
ではないか」
「いいえ。家康様にも加わっていただくつも
りです。それにはまず、秀雄様のご決断が必
要なのです」
 秀雄はしばらく考えて宗易に任せることに
した。
 宗易はすぐに家康のもとに向かい、秀吉と
秀雄の和睦が成立したことを伝え、家康に大
義名分のなくなった無用の戦を止めるように
訴えた。
 機転のきく家康はすぐに理解を示し、兵を
退き、秀吉と和睦することを受け入れた。
 しばらくして、宗易から秀吉のもとに「信
雄からは長女の小姫、家康からは次男の於義
丸を人質として送る」との知らせがあった。
 こうして和睦は成立した。
 結局、家康は秀吉に踊らされ、夢を見せら
れただけに終わり、目が覚めると秀吉の思い
通りに進んでいたことに気づかされた。
 気の合わない兄弟のようだが、秀吉は家康
を得て武家と公家の支持を得ることができ、
家康は発言権を増し、秀吉の後継者になる機
会を手に入れた。
 秀吉が、家康、信雄と正式に和睦を締結し
上洛すると、朝廷から従三位、権大納言に叙
任された。この時、秀吉は財力にものをいわ
せて養子にした辰之助改め秀俊を権中納言に
するよう願い出た。
 権中納言になる条件の一つには、参議になっ
た経歴があることなのだが、三歳の子を参議
にするなど前例があるはずもなく、その上、
参議を飛び越していきなり権中納言にするな
ど途方もない願いは一笑にふされた。しかし、
秀吉は「秀俊には信長公が転生している」と、
これまでの経緯を語り「信長公ならば参議ど
ころか権大納言にもなっている」と主張した。
 この時代の朝廷は、祈祷などをして権力の
維持をはかっていたため、霊的な体験をあか
らさまに否定できなかった。まして、破竹の
勢いで天下統一に向かっている秀吉の武力を
無視することはできず、何よりも秀吉の多額
な献金は魅力的だった。
 権中納言の「権」がつくのは正員ではなく
補欠のような立場ということもあり、朝廷は
秀俊を権中納言とし左衛門督の官位も与える
ことにした。
 左衛門督の唐名が執金吾ということで、こ
れ以後、秀吉とねねは秀俊のことを金吾と呼
んで溺愛した。