2013年4月20日土曜日

家康立つ

 天正十二年(一五八四)一月

 羽柴家は毛利一族との交渉が順調に進んで
いることもあって、穏やかな新年を迎えてい
た。
 この頃、秀吉の主な家臣には武勇に優れた
「賤ヶ岳の七本槍」に加えて、参謀として弟
の秀長、茶頭でありながら外交交渉にもあた
る千宗易、賤ヶ岳の戦いでは武功もあげ、知
略にも長けて徐々に頭角を現し始めた石田三
成と大谷吉継がいた。
 特に秀吉は今年で二十五歳になる三成と、
三成より一つ年上の吉継にもっとも期待して
いた。
 大陸・明の歴史書、三国志によれば、蜀の
劉備玄徳に仕えた二人の軍師、諸葛孔明とホ
ウ統士元は「伏竜、鳳雛」と称され、この二
人を得れば天下を取れるとまで言われていた。
 秀吉はこれにならい、三成と吉継を「伏竜、
鳳雛」になぞらえ宣伝することで、世間は秀
吉の天下統一が実現するかもしれないと感じ
るようになっていた。
 その過熱をいっきに冷ますように秀吉の前
に立ちはだかる巨人、徳川家康が動き出した。

 秀吉は織田信雄に大坂城への登城を促した。
それは織田家が羽柴家の家臣になることを意
味していた。
 信雄は弟、信孝の二の舞になるのではない
かと脅威を感じて、すぐさまこれを拒否し家
康を頼った。
 家康にとって秀吉は、信長の足軽として調
子よく動き回っていた頃の印象しかなかった。
 その家康に織田家の相続権がある信雄が泣
きついてきたことで、家康は秀吉討伐の大義
名分を得ることになった。
 明智光秀の三日天下のこともあり、家康は
秀吉を簡単に片付け、自らがいよいよ天下を
取る順番が回ってきたと確信した。そこで信
雄と同盟を結んだ。
 秀吉は家康と信雄の同盟を知ると、すぐに
近江に行き、千宗易の茶の湯によって得た資
金力にものをいわせて鉄砲をすべて買占めた。
そして鉄砲の生産を止めさせた。
 それからもう一方の鉄砲生産供給地、和泉
の堺には堺商人でもある宗易を向かわせ、家
康に加担しないように言い含めさせた。
 商人というのは戦が起きると財産をすべて
失うことがないように敵味方の区別なく双方
に分散投資する。そうすればどちらが勝って
も負けても財産の一部は確実に残るからだ。
それが戦を長びかせ泥沼化させる原因でもあ
る。
 堺商人も宗易が到着した時には秀吉と家康
の双方に投資する準備を進めていた。そのた
め誰も宗易の話に耳をかそうとはしない。
 宗易も説得しようとは思っていなかった。
ただ、家康に直接投資するのではなく、他の
大名や商人を介して投資するように示し合わ
せた。