2013年4月15日月曜日

秀吉の懐柔策

 天正十年(一五八二)十二月

 柴田勝家は北陸の越前・北ノ庄城を居城と
していた。
 そのため冬には雪深くなり、動けなくなっ
た。それを待っていた秀吉は、すぐに勝豊が
居城する近江・長浜城を兵五万人で完全に包
囲した。
 ここで秀吉が勝豊を長浜城に迎えた時の宴
会が生きてくる。
 まず秀吉は勝豊にあの時のことを思い出さ
せた。そして味方につけば悪いようにはしな
いと降伏を促した。
 こういった時には秀吉の弟の秀長が裏付け
の役目をして豊勝を信用させた。
 勝豊はあっさりと長浜城を明け渡し、秀吉
の軍門に下ることにした。
 一益が選んだ次の標的は織田信孝だった。
 信長の三男、信孝は本能寺の変が起きた時、
秀吉と合流して戦った。したがって清洲会議
では秀吉が味方になり自分が信長の後継者に
選ばれると思っていた。しかし秀吉は、亡く
なった長男、信忠の子、三法師を選んだ。そ
の不満がくすぶり続けていたのだ。
 信孝は一益から、柴田勝家が秀吉に敵対し
ていることを知らされると、自分を擁立して
くれた義理もあり、勝家に味方することにし
た。
 信孝が秀吉に敵対する姿勢を示すと、秀吉
は柴田勝豊を降伏させたわずか十日後に信孝
の居城である美濃・岐阜城を包囲した。
 ここでも秀吉は懐柔策を駆使して信孝の父、
信長に茶頭として仕えた千宗易を説得に向か
わせるなどして信孝を降伏させた。
 秀吉はこんな慌しい間にも山城に山崎城を
築城していた。そして完成すると凱旋し、ま
もなく新年を迎えた。

 天正十一年(一五八三)一月

 去年の今頃は信長が近江の安土城で諸大名
から年始の祝賀を受けていたのだが、今はそ
んな華やかさはどこにもなかった。
 秀吉は内紛の芽を摘むことを急いでいた。
それは徳川家康が徐々に勢力を拡大していた
からだ。
 家康は本能寺の変が起きた頃、堺にいて、
異変を知るとすぐに三河に逃げ帰り、織田家
の混乱に乗じて甲斐を攻め落とした。それと
同時並行で信濃に侵攻して北条と講和するな
ど、秀吉に対抗する姿勢を示した。
 その勢いにのり上洛の機会さえうかがって
いたのである。
 秀吉は新年早々、次の手を練っていた。そ
して一気に決着をつけようと滝川一益に密か
に命じ、自分に敵対するふりをさせて、秀吉
の支城である桑名城、谷山城、峯城、亀山城、
国府城を次々に攻めさせた。
 これをきっかけに秀吉は出陣し、二月十日
に一益を本拠地の伊勢・長島城に包囲して予
定通り降伏させた。そして、十六日には桑名
城、谷山城、峯城に放火した。また、二十日
にも秀吉は亀山城、国府城を鎮圧して伊勢を
平定して見せた。
 一益を味方だと信じている柴田勝家は一益
が降伏したことを知ると、雪解けを待てず、
二月末に出陣し、前田利家、佐久間盛政らと
合流して兵三万人で近江の柳ヶ瀬に布陣した。
 秀吉は利家までもが自分に反感を抱いてい
たとは思いもしなかったが、これで膿(うみ)
をすべて吸い出すことができると息巻いた。