2013年5月1日水曜日

茶の湯外交

 凱旋した秀吉は朝廷より豊臣姓を賜り、こ
の機会に側近へ日ごろの労をねぎらうため、
石田三成、増田長盛、大谷吉継、千宗易、施
薬院全宗、今井宗久、今井宗薫らを伴って摂
津、有馬の温泉で湯治した。また、十月にな
ると秀吉は、宗易を伴い正親町天皇に茶の湯
を献上するなど戦を離れて朝廷とのつながり
を深めた。
 宗易はこの時、正親町天皇より利休という
居士号を賜った。これは秀吉と同じく町人か
らの大出世だった。
 秀吉は関白になったことを大々的に宣伝す
るため、利休に命じて黄金の茶室を造らせた。
 黄金の茶室は組み立て式で、床の間付きの
三畳。その天井、壁、柱、障子の桟にいたる
まで全て金箔張りであつらえてあった。そし
て、茶器なども全て黄金でそろえさせた。
 組み立て式でどこにでも運べるという発想
は、秀吉が信長の家臣だった頃に墨俣一夜城
を短期間で築城した工法で、あらかじめ部材
をある程度組み立てておくという経験をもと
にしていた。
 早速、大坂城の天守閣に組み立てられた黄
金の茶室は、すぐに話題となり、天下人、秀
吉の名を不動のものにした。しかし、利休は
これとは対照的に、質素のなかに美を見出そ
うとした。それを「侘び茶」と称し、力を注
ぐようになった。
 秀吉にしても利休にしても茶の湯を自らの
栄達に利用しようとしたことにはかわりはな
かった。
 この頃、九州では、薩摩の島津一族と豊後
の大友一族の対立が激しさを増していた。
 島津一族の島津義久には、室町幕府の復興
を狙う第十五代将軍、足利義昭と西国の毛利
一族が味方していた。
 大友一族は、大友義鎮が家督を長男の大友
義統に譲ってはいたが、いまだに義鎮が実権
を握っていたため、内部分裂を起こしていた。
それに乗じて島津義久が大友の領地に侵攻し
て、九州統一は時間の問題だった。
 そこで義鎮は、関白となった秀吉を頼った。
 秀吉は足利義昭の幕府復興を阻止できると
考え、義久に降伏勧告をおこなった。
 義久がこれを拒んだため、毛利輝元と四国
の長宗我部元親に出陣を命じた。しかし、毛
利は島津に味方して大友とは敵対していたの
で、協調した戦いができず大敗した。
 それならばと秀吉は、まず大友と毛利の和
睦をさせようと考えた。
 年が明けた天正十四年(一五八六)一月に
秀吉は、大坂城から京・御所へ黄金の茶室を
運び、茶会を開催した。
 集まった公家たちは茶室の美しさより、秀
吉の底知れない財力に圧倒された。その中に
は足利義昭もいた。
 秀吉は義昭に茶を振る舞い、豊臣幕府の構
想を聞かせ、暗に義昭の幕府復興をあきらめ
させようとした。これに対して義昭は「豊臣
幕府をおこすには東国と関東を支配する必要
があり、まずは徳川、北条を屈服させること
だ」と受け流した。
 秀吉は茶をすすりながら「もちろん近いう
ちに」と返答した。