2013年5月11日土曜日

小田原征伐

 天正十七年(一五八九)十一月二十四日

 秀吉は北条氏直に宣戦布告状を送り、諸大
名に相模・小田原征伐の準備を命じた。そし
て、翌年の二月に先発部隊が小田原に向け出
陣した。
 秀吉も三月初めには京を発ち、同月十九日
に駿河に到着して家康の居城、駿府城に入っ
た。
 その家康は、すでに小規模な戦をおこない
戦果をあげて城に戻って来た。
 諸大名の部隊も次々に小田原に向かってい
たが、兵二十万人を超えた大軍による勝ち戦
を確信してか余裕があり、秀俊の兄、木下勝
俊などは歌を詠みながらの旅気分だった。
 その一方で秀次は、秀吉に嫡男の鶴松丸が
生まれて、後継者の道が断たれたこともあり、
この戦に賭けていた。
 秀次は、なんとか手柄を立てて鶴松丸の後
見人になり、かつて秀吉が、三法師の後見人
として天下を取った時と同じ道を歩もうと考
えていた。それにこの戦いには、秀吉の弟、
秀長が病に倒れて参加していなかったことで、
秀次には自分の力を秀吉に見せるにはいい機
会だと思っていた。
 秀次は、伊豆・箱根山の近くに築かれた山
中城の攻略を任された。
 途中、北条軍の奇襲部隊と交戦し、死を覚
悟した北条軍の松田康長らの襲撃に苦しみな
がらも、山中城を攻略した。
 その後、家康の部隊や宇喜多秀家の部隊な
どと合流して、鷹巣、足柄、禰不川などにあっ
た諸城を制圧して、三日あまりで小田原に侵
入した。
 堀秀政、池田輝政、丹羽長重などの部隊も、
伊豆・熱海口から次々と小田原へ集結した。

 天正十八年(一五九〇)四月六日

 秀吉は、伊豆の湯本にある早雲寺に本陣を
構え、小田原城を包囲する時を待った。
 上野では、真田昌幸、上杉景勝、前田利家
の各部隊が松井城を攻略し、小田原に向かっ
ていた。
 海からは、長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂
安治らの水軍が兵糧輸送にあたった。
 やがて小田原城の包囲が完了すると秀吉は、
小田原城の近くにある石垣山に短期間で築い
た城に移り、長期戦をする姿勢を示した。
 北条は、小田原城に籠城すれば大軍も恐れ
ることはないと悠然と構えていた。その矢先、
石垣山に一夜にして現れた城を見て驚愕した。
 秀吉出世物語の語り草になっていた、墨俣
一夜城の再現を見て誰もが恐怖した。
 石垣山一夜城からは小田原城が一望できた。
 その全容に秀吉は驚嘆した。そして、すぐ
に京のねねに手紙を書き、従者に届けさせた。