2013年5月22日水曜日

名護屋城

 秀吉は、利休への怒りがおさまると冷静に
自問した。
(朝鮮出兵をつい口にしたが、これは単なる
思いつきだろうか。いや、九州征伐の時、対
馬の宗義智を介して朝鮮王に服従を勧告した
がその返答がなかった。それが心の中にあり、
燃えかすのようにくすぶっていたのかもしれ
ない。しかし今、朝鮮を相手にしていればそ
の隙に異国がこの国を攻めてくるかもしれな
い。もし異国が攻めてくるとしたら上陸する
のは九州。そうじゃ九州に強固な城を建て、
その備えとしよう。みておれ利休、お前の呪
いなど、跳ね返してくれるわ)
 この年の九月には正式に朝鮮への出兵準備
命令がくだされ、十月には加藤清正が奉行と
なり、肥前に名護屋城の築城を始めた。
 十二月に入って、ようやく北政所は秀吉に
聞いた。
「身は二つに裂けませぬが、日本と朝鮮のど
ちらにお住みになるので」
 すると秀吉は察したのか、関白を辞任して
朝鮮出兵に専念することにした。
 それを受けた後陽成天皇は秀次を関白に任
命した。
 いくら望んでも手に入らない関白の座が、
忘れた頃にポンと転がり込んでくる。
(運命とはあっけないものよ)
 秀次はため息をついた。

 肥前・名護屋城は、わずか五ヶ月で完成し
た。しかし、その規模は大坂城に匹敵し、五
層七重の天守、多数の曲輪などを配置した頑
強な要塞であり、秀吉好みの金箔などで装飾
された豪華さも兼ね備えていた。
 城の周りには全国から集まる諸大名のため
に、庭園などもある邸宅が建てられた。その
数は百二十棟を超えた。
 十六万人を超える将兵を目当ての店も並び、
各地から商人によって兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって、戦続きで荒廃して
いた九州全体が急速に復興していった。