2013年5月6日月曜日

聚楽第

 秀吉は九州征伐の残務処理を弟の秀長に任
せ、天正十五年(一五八七)七月半ばに意気
揚々と大坂城に凱旋した。
 その後すぐに上洛して、朝廷に九州平定を
報告すると、戦勝祝いで訪れた家康と会った。
そして二人は、完成間じかの聚楽第を視察し
た。
 周囲に堀を巡らせた聚楽第は、秀吉が政務
をおこなう大邸宅だったが、平城として天守
のある本丸や二の丸が建てられ、その威圧を
和らげるため、いたる所に金箔を使った装飾
が施されていた。また、賓客をもてなす時の
ために、千利休の屋敷も造られていた。
 家康は複雑な思いだった。
 秀吉が天下を取ったことは認めざるおえな
いが、これでは信長の二の舞になるのではな
いかと懸念したのだ。
(思えば信長公が安土城を築城した時から天
が見放したような……)
 家康は何か起きた時、秀吉の家臣では不利
になるのではないかと考えをめぐらせていた。
 対照的に秀吉は満足げな顔をしていた。
(この大邸宅なら必ず公家たちは集まる。そ
れらを手なずければ、天皇さえも意のままに
できる)
 そう思うと自然と笑いがこみあげてくる。
だが、その喜びを打ち消すかのように、九月
に入ると九州・肥後で一揆が起こった。
 秀吉は、朝廷に九州平定を報告して間もな
く起きた一揆を、知られないうちに解決しよ
うと、すぐに肥前の鍋島直茂を一揆鎮圧に向
かわせた。
 この一揆が起きた原因は、秀吉のキリシタ
ン禁止令に反発していた領民と、この頃から
始められていた検地によって地位を失った旧
領主の不満が噴出したものだった。しかし、
秀吉はそれを肥後の佐々成政による失政が原
因で起きたと責任を転嫁した。
 秀吉は、こうした不吉な事件が起きる中、
聚楽第へ転居することになった。
 九州で起きた一揆の影響で、公家たちの信
頼を失うかもしれないと秀吉は心配したが、
幸いにして大勢の公家たちが豪華絢爛な大邸
宅を一目見ようと、祝いを兼ねて集まって来
た。
 それに気をよくした秀吉は、さらに公家た
ちの心を引き付けようと京・北野天満宮で大
茶会を催した。
 北野天満宮の拝殿の近くには、秀吉自慢の
組み立て式黄金の茶室が設置され、名だたる
茶器も並べられた。その側には千利休、津田
宗及ら、茶人の茶室もあった。
 この大茶会には、庶民の参加も許されたた
め、その者らの茶室が早朝から建ち始めた。
その数は千棟を超え、茶の湯人気の広がりを
物語っていた。
 大勢の人でにぎわう中、上機嫌の秀吉が、
ねねや側室などを伴ってやって来た。そして、
黄金の茶室の前で公家や諸大名らの出迎えを
受け、挨拶を交わした。ただし、茶の湯の人
気でいえば、利休の茶室に集まった人の数が
上回っていた。
 それは、利休が提唱した詫び茶が、これま
での高値で手に入りにくい唐物茶碗から、庶
民にでも買える瀬戸焼茶碗など質素な物の中
に美を見いだしたからだ。そのため、今まで
高値で茶器をそろえた公家などから茶器の値
が下がったと恨まれることもあったが、それ
にもまして利休の名声は広まっていった。
 秀吉はそんな茶の湯のことはどうでもよく、
庶民が今の世を極楽だと思うように苦心した。