2013年5月12日日曜日

戦わず勝つ

 この頃、ねねは「北政所」と呼ばれるよう
になっていた。
 北政所は、京に住まわせるようになった諸
大名の妻子と融和をはかり、慣れない生活の
不安解消に努めていた。
 北政所のこうした気遣いがあったからこそ、
諸大名は妻子を人質にとられたという不満も
なく、秀吉に従っていたのだ。
 その北政所のもとに秀吉の手紙が届いた。
「小田原城を完全に包囲して憂いはなくなっ
たが、北条の降伏には時間がかかりそうなの
で千宗易、金吾、淀と侍女らを小田原によこ
してほしい」といったことが書かれていた。
 これは、明らかに淀を目当てにしていると
北政所は読み取った。しかし、秀吉と北政所
は夫婦というより、やんちゃな子とその母親
のような関係になっていたため、嫉妬心など
はなく、淀に伝え「行きたい」と言えば行か
せるだけだった。

 秀吉が石垣山の城で待ちわびていると、そ
こに淀、秀俊、利休らがようやく到着した。
 イライラしていた秀吉もとたんに顔がほこ
ろび、上機嫌で出迎えた。
 それから連日のように茶会や宴会を催して、
戦のことなど忘れているようだった。
 九歳になった秀俊にとって、これが初陣と
いうことになった。
 石垣山から小田原城を望むと、町全体が土
塁や堀で囲まれてその広さに驚いたが、さら
にその周りを取り囲むように秀吉の大軍勢が
集結して、それらが掲げた無数の幟や将兵が
身につけた旗指物がキラキラと錦に輝いて、
まるで祭りでもしているかのように、にぎや
かに見えた。
 秀俊は、総大将にでもなったつもりで目を
見開いて見ていた。
 興味深そうに見ている秀俊の側に、秀吉も
やって来て、小田原城を見下ろした。
「どうじゃ金吾、これが難攻不落の小田原城
じゃ」
 秀吉は自分の城を自慢するかのように言っ
た。
「とと様、いつこの城を攻めるのですか」
 秀俊は秀吉の陣羽織の端をつまんで聞いた。
「この城は攻めても無駄じゃ。よいか金吾、
奪ってはならない土地もある。戦って勝つこ
とよりも、戦わずに相手を味方にすることの
ほうが最善の策じゃぞ」
 秀俊は少し考えた。
「戦わないから私もここにこられたのですね」
 秀吉は、つまらなそうな顔をしている秀俊
の肩にそっと手を置いて言った。
「いやいや、そうともいえんぞ。今は金吾も
皆と一緒に戦っておるんじゃから」
「ふ~ん」
 そう言ってうつむく秀俊の脇の下を秀吉は
くすぐり、無邪気に遊び始めた。