2013年5月24日金曜日

無防備

 朝鮮では、日本の不穏な動きを知りながら
も、戦にはまだならないだろうと警戒をして
いなかった。そのため、あっけなく日本軍の
上陸を許した。
 朝鮮に上陸した一番隊の小西行長、宗義智
らは、釜山城、東來城、梁山城と次々に攻略
した。
 この頃の朝鮮は、鉄砲が普及しておらず、
そもそも戦の仕方が日本とは違うため、日本
軍の鉄砲を使用した攻撃を防げなかったのだ。
 大陸が宋の時代に発明した火薬は、日本が
鎌倉時代の蒙古襲来で使用されてその威力を
示した。その後、西洋に伝わり、鉄砲に使わ
れるようになった。
 その鉄砲を明では、日本よりも早くポルト
ガル人が伝え、その威力を知ってはいたが、
太祖、朱元璋が統一して二百年を超える長期
間の平和が続いていたので、鉄砲の必要性を
感じていなかった。
 それに明では、町全体を城壁で囲む城郭都
市を形成していた。このことが鉄砲ではなく
城門や城壁を破壊する強力な大砲など、攻城
兵器の開発に注がれていた。
 朝鮮でも李氏が統一して二百年以上にわた
る長期間、平和が続いたため、鉄砲を使用し
た戦闘の研究が進んでいなかった。これに対
して、日本は戦国時代の真っ只中で、信長に
よって鉄砲の威力が認められた。
 鉄砲は、これを機に急速に普及し、戦闘方
法も激変した。こうしたことによって皮肉に
も、鎌倉時代の蒙古襲来とは逆の立場で争わ
れることになった。
 日本の部隊は、次々と朝鮮に上陸し、国王
がいる都にある漢城を目指した。
 軍船は、往きに部隊と兵糧を運ぶと帰りは
戦利品と捕虜を運んだ。
 肥前・名護屋城の近くの港には、大量の書
物や陶器、武器などの戦利品と学者、職人、
農民など、多数の捕虜の上陸でしだいに慌し
くなっていった。
 それらを選別するために、朝鮮の言葉が分
かる僧侶が集められ、惺窩と弟子の賀古宗隆
らも筆談でやり取りしてこれに加わった。
 朝鮮に侵攻した部隊は、国王を逃がしたも
のの、五月初めにはすでに漢城を攻略してい
た。
 これに気を良くした秀吉は、もう明まで征
服したつもりになり、明の関白に秀次を任命
し、後陽成天皇を北京に移すなどと決めてい
た。そして、自らも朝鮮へ渡る準備を始めた。
しかし、秀吉の母である大政所が病気という
知らせがあり、秀吉の朝鮮行きは延期となっ
た。
 秀吉は、加藤清正、鍋島直茂に朝鮮の地に
拠点となる城の築城を命じ、毛利輝元には明
への侵攻を命じた。