2013年6月12日水曜日

秀吉の威光

 慶長三年(一五九八)八月十八日

 京・伏見城の床に伏した秀吉は、徳川家康
と前田利家に秀頼のことを何度も頼んだ。
 その後、家康には東方の統治、毛利輝元に
は西方の統治をするように命じてこの世を去っ
た。
 六十三年間を生きぬき、百姓の身から関白
の座にまで上りつめた。そして、戦国乱世を
終わらせ天下統一を果たした。その男の最期
は、自らが引き起こした朝鮮侵略の真っ只中
にあった。
 そのため、遺体はひっそりと移され「余が
身罷ったら洛東阿弥陀ケ峯に葬れ」との遺言
に従って、密葬が行われた。
 秀吉の死が知らされないまま朝鮮にいた日
本軍は、加藤清正の部隊が蔚山で明軍と交戦
し、島津義弘、家久の部隊が晋州の泗川城を
攻撃していた。また、小西行長の部隊は明軍
に退路を断たれ、順天城で籠城しているとい
う状況だった。
 すぐに家康と利家から、これらの諸大名に
帰国の指示が出されたが、この時もまだ、秀
吉の死は知らされることはなかった。
 先に秀吉の死を知ったのは明・朝鮮連合軍
のほうで、反転攻勢に出ようとしていた。
 急きょ、筑前・博多に着いた石田三成、毛
利秀元、浅野長政らの効率的な軍船の手配で、
日本軍の撤収は敏速に進められた。
 しばらくは朝鮮水軍との攻防があったが、
なんとか年末までには帰国させることができ
た。
 その後、前田玄以、浅野長政、増田長盛、
石田三成、長束正家の五奉行と、徳永寿昌、
宮木豊盛によって、朝鮮との和議が進められ
た。

 慶長四年(一五九九)二月十八日

 秀吉の密葬がおこなわれて六ヵ月後に、そ
の死が世間に知らされた。
 この時、葬儀はおこなわれていないのに、
「秀吉公御葬式御行烈記」「太閤秀吉公御葬
式行列帳」など、ありもしない葬儀の記録が
記され、それには秀吉の嫡男、秀頼が喪主と
なり勅使を迎えて、北政所や淀を始め、五大
老、五奉行など二万人以上が参列した大葬儀
があたかも実施されたように世間には伝わっ
た。
 これは庶民が秀吉をよほど慕っていたとい
うことを示す異例のことで、その死を悼み派
手好きだった秀吉を偲んだものだった。
 秀吉は庶民に良い部分だけを見せ、悪い部
分を隠して最期まで騙しとおしたのだ。
 そんな世間とは対照的に、諸大名は後継者
が誰になるのかに関心が移っていた。
 表向きは生前の秀吉に誓ったように、秀頼
を後継者と認めてはいたが、ほとんどの大名
がすでに豊臣家を見限っていた。
 伏見城に集まった諸大名は、秀吉を追悼す
る簡単な法要をすませると、ある者は秀頼の
もとに、またある者は徳川家康のもとに挨拶
に向かった。
 家康は、かつて秀吉が信長の孫、三法師の
後見人になり天下を取ったように、秀頼の後
見人として天下を支配しようとしていた。そ
して、秀吉が生前に命じたように、伏見城に
は家康、大坂城には秀頼が入った。
 この時はまだ、家康は東方の統治、毛利輝
元は西方の統治という秀吉の命令が守られて
いた。しかし、家康は政策の決定をあからさ
まに独断するようになった。
 その一つが、秀秋の国替えを無効にしたこ
とだ。
 家康は、秀吉の遺言という名目で、筑前、
筑後と肥前の一部の所領を秀秋に戻した。
 これは、この領地の代官だった石田三成を
解任したいという思惑があったからだ。
 三成は自分が解任されたことよりも、輝元
を無視した越権行為に怒りを募らせた。