2013年6月14日金曜日

家康と三成

 秀秋が戻った領地には、幼い時から面倒を
見てくれた山口宗永はいなくなったが、側近
の顔ぶれはほとんどかわらず、稲葉正成に加
えて、新しく大炊助長氏が補佐役になってい
た。
 しばらくすると、以前、家臣だった者たち
が再び仕官を求めて来ることもあった。
 領地は朝鮮出兵の影響でみるからに疲弊し
ていた。
 秀秋はすぐに領地管理の担当者を以前のよ
うに、家臣の性格を陰陽に分け、陰の者には
城内の仕事を任せ、陽の者には城外の領地の
管理などを任せた。そして、陰と陽を兼ね備
えた者の中から城主を決めて復興に力を注い
だ。
 復興には、朝鮮でおこなった開墾の経験も
生かされ、力自慢の河田八助らが率先して働
いた。
 家康から押し付けられた浪人たちも、秀秋
の指示に素直に従い、家臣としてしだいに馴
染んでいった。

 この頃、伏見にいる家康の行動が大胆にな
り、禁止されていた婚儀による諸大名との関
係強化をおこなったり、領地加増を独断でお
こなったりと規律を乱していた。
 次第に前田利家との関係が悪化して、つい
には石田三成らによる家康襲撃事件が起こっ
た。
 かろうじて襲撃の難を逃れた家康は、その
後、利家が死去するとさらに勢力を拡大した。
これに対抗するため、三成は五大老のひとり、
宇喜多秀家を頼った。
 秀家は、備前・岡山の宇喜多直家の次男と
して生まれたが、秀吉が織田信長の家臣とし
て中国地方で毛利と戦った頃、直家は信長に
味方するため秀家を人質として差し出した。
その後、直家と信長が死ぬと秀吉が秀家を養
子とした。そして、前田利家の三女、豪姫と
結婚したことで、後に、秀次が謀反を企てた
という事件から難を逃れて、秀吉、利家に頼
られるようになり、備前、美作の五十四万石
を所領とし、五大老のひとりとなっていた。
 三成に説得された秀家は、秀吉の遺志を継
ぐのは自分しかいないという自負心もあり、
秀頼が成人するまで後見人となることを心に
決めた。
 三成が秀家を味方につけたことで、今度は、
家康に味方する加藤清正、福島正則らが三成
を襲撃した。
 これを逃げ延びた三成は、あえて家康のも
とに駆け込み仲裁を頼んだ。
 家康は、助けを求めている三成を拒めば、
自分が襲撃の首謀者にされかねないと考え、
しかたなく仲裁を引き受けた。
 家康は対立を治めると、三成にも落ち度が
あったとして、三成を奉行から解任した。そ
して、居城の近江・佐和山城に蟄居させた。
 このことで家康も、これ以上の混乱を恐れ、
毛利輝元、島津義弘らに誓書を送り、秀頼を
支えて謀叛など起こす気のないことを誓った。
しかし、これを口実に家康は、伏見城から秀
頼のいる大坂城に移り、政務をするようになっ
た。
 次第に「家康は東方の統治、輝元は西方の
統治」という秀吉の命令が、大きな対立を生
もうとしていた。
 近江・佐和山城に蟄居させられた石田三成
は、家康の寿命を計算していた。
(家康は今年、五十八歳。仮に七十歳まで生
きたとしてもあと十二年。それまでに家康の
子の誰かが跡を継ぐ。家康の子には才覚のあ
る者が一人もいない。いずれ世は乱れるだろ
う。その時、秀頼様を押し立て、諸大名を説
得すれば、必ず豊臣の世を再興できる。この
まま隠居して世捨て人になりすまし、家康に
秀頼様を殺す口実を与えないように手立てを
して、力を蓄えるのもよかろう)
 三成は十二年後には五十二歳、秀頼は十九
歳になる。
 跡を託すにはいい頃合いと考えていた。し
かし、その計画を覆す人物が現れた。