2013年6月4日火曜日

朝鮮上陸

 釜山支城は日本軍が上陸するため、海に面
した場所に元々あった朝鮮の城を壊して築城
した。
 沿岸には堀が造られ、城内に軍船でそのま
ま入れるようになっていた。
 ここに、秀秋の部隊、兵一万三百人と総大
将の軍目付として太田一吉、軍医兼通訳とし
て安養寺の慶念が供に上陸した。そして、こ
こから見える釜形の小高い山にある釜山浦城
に向かった。
 釜山浦城も朝鮮の城を壊して日本の平城が
築城され、休戦中も日本の部隊が交代で守備
していた。
 そのため城の周りは平穏が保たれている。
 すでに上陸していた他の部隊は、すでに各
戦地に向かい、戦いが始まっている地域もあっ
た。
 朝鮮は文禄に侵略された時とは違い、防衛
体制を整えて待っていた。その一つが、日本
軍の拠点とする城の辺りにある農村を完全に
無人化することだった。
 このため日本軍は、現地で兵糧を調達でき
ない状況にあった。そこで、以前から秀吉は
「周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保に
努めるように」と指示していたのだ。
 秀秋もこれに従い、全軍に防備を固めさせ、
拠点となる諸城の修繕と開墾をするように指
示した。しかし、このことをまったく忘れて
いた秀吉は、文禄の時のように朝鮮を侵攻し
ているとばかり思っていた。
 いつまでたっても秀吉のもとには、華々し
い戦果の報告がいっこうに入ってこない。
 しばらくして侵攻をしていないことが分か
り激怒した秀吉は、秀秋に朱印状を送った。
 秀秋のもとに届いた朱印状には、

 何事も諸大名と相談して越権行為はせず、
兵法を学ぶように。もし何もしないのなら強
制帰国させる

 といった内容だった。
 これは、秀秋が兵法も知らないうちに独断
で諸大名に命令し、侵攻を止めているから成
果が上がらないのだと読み取れた。
(とと様はもうろくされた)
 秀秋はため息をついた。
 兵法を学んでいなくてもこの戦に大義名分
のないことはすぐに分かる。
 秀吉が天下を取った時には、民衆の支持が
あり、平安を望む時代の要請があった。しか
し、朝鮮にはそれがまったくない。
 朝鮮からすれば、この戦は無意味な侵略で
しかないのだ。
 それでも秀秋は、この地に根を下ろし、理
想の国を創っていこうと思っていた。
 日本には捕虜となって連れてこられた朝鮮
人たちが、その才能を発揮して儒学や印刷、
陶磁器を発展させている。一方、朝鮮では、
投降した日本兵が鉄砲を使った戦闘方法を教
えて協力し合っている。こうしたことから秀
秋は、いつか協力しあえる日が来ると信じて
いた。
(惺窩先生が来たいと熱望したこの地。まだ
学ぶべきものがあるはずだ。惺窩先生のため
にも平安を築かねば)
 秀秋は総大将の権限として、秀吉の指示を
認めず、諸大名には現状維持を命じた。そし
て自らも、体力維持のためにと開墾を手伝っ
た。その合間には馬を走らせて諸城の修繕を
視察して回った。