2013年6月2日日曜日

再び朝鮮出兵

 秀秋は時々、諸城に出向き、そこで従者を
選んで馬を乗り回し、領地を案内させた。
 こうすることで従者となった家臣がどれだ
け領地のことを把握しているか知ることがで
きた。
 最初は秀秋に馴染まなかった領民も、しだ
いに顔見知りになっていった。
 しばらくして、京では大地震が発生した。
 伏見城の天守閣とその周りの大名屋敷が倒
壊したが、城にいた秀吉は難を逃れ、捨丸か
ら名を改めた秀頼と淀、北政所らは大坂城に
いて無事だった。
 惺窩も命拾いをしたが、この地震での死者
は五百人を超える大惨事となった。
 秀吉は、すぐに新しい城を、伏見の木幡山
に築城するように命じて復興にとりかかった。
 この大惨事でも、皆が無事だったことに秀
吉は、利休の呪いが解けたという思いがして
安心した。
 ちょうどこの頃、明の使者が大坂城に登城
して、和平交渉をおこなうことになった。
 和平交渉の最中、明の態度に怒りをあらわ
にした秀吉は、明を侵略する足がかりとして
朝鮮出兵の準備を命じた。
 秀吉には、初めから和平交渉などする気は
なく、これを機会に再度、朝鮮への出兵を企
んでいたのだ。

 慶長二年(一五九七)二月二十一日

 朝鮮へ出兵する諸大名の編成が決まった。

 一番隊
  加藤清正
 二番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
 三番隊
  黒田長政、島津義久
  毛利吉成
 四番隊
  鍋島直茂、鍋島勝茂
 五番隊
  島津義弘
 六番隊
  長宗我部元親、藤堂高虎
  池田秀氏、来島通総
  中川秀成、菅達長
 七番隊
  蜂須賀家政、生駒一正
  脇坂安冶
 八番隊
  毛利秀元、宇喜多秀家

 釜山浦城
  小早川秀秋
 安骨浦城
  立花宗茂
 加徳城
  高橋直次
 竹島城
  小早川秀包
 西生浦城
  浅野幸長

 軍目付
  太田一吉、毛利重政、竹中重利
  垣見一直、毛利高政、早川長政
  熊谷直盛

 そして、総大将は小早川秀秋と告げられた。
 先の文禄の朝鮮出兵で、疲弊した領地がま
だ復興していない諸大名は落胆の色が隠せな
かった。
 それをよそに秀吉や徳川家康らは、京・醍
醐寺三宝院へ花見に出かけて楽しんだ。
 家康は、文禄の朝鮮出兵を免れている間に
所領の開発が進み、百八十六万石から二百五
十六万石に激増させていた。しかし、家康は、
東方の統治を任されていることを理由に、今
度の朝鮮出兵にも加わることはなく、秀吉の
機嫌をとることに専念した。
 その秀吉の言動は、日増しに異常になって
いった。
 ある日などは、宇喜多秀家の正室、南の御
方が狐の祟りによって病気になったと言いだ
し、稲荷大明神へ日本中の狐を退治すると通
告した。
 そんな秀吉に従うことしかできないほど、
政治機能が麻痺した中での朝鮮出兵だった。