2013年6月21日金曜日

揺らぐ計画

 島津義弘が火箭を大量に製造でき、すでに
保有もしていることが分かると、宇喜多秀家
らが、大坂城に籠城するのではなく野戦をす
るべきだと主張した。
 秀家は、豊臣秀吉の養子で五大老のひとり
だったことで、毛利輝元と一緒に大坂城にい
る秀頼の名代として兵一万八千人を率いる総
大将となっていた。
 そのため、三成もしかたなく従わざるおえ
なかった。しかし、輝元は大坂城に留まって
秀頼を守り、その代わりに輝元の養子、秀元
と補佐役の安国寺恵瓊、吉川広家を野戦に参
加させると言いだし足並みを乱した。
 その頃、家康が伏見城落城の様子を聞いて
がく然としていた。それは、島津義弘と小早
川秀秋の裏切りだった。
(なぜだ。圧倒的に優勢なわしを義弘はなぜ
裏切ったのだ。それにあの小僧。領地を戻し
てやった恩も忘れ、わしに歯向かうとは。愚
か者が)
 家康は疑心暗鬼におちいり、秀吉に仕えて
いた諸大名を信じられなくなっていった。
 伏見城が落城した後、秀秋はすぐに、家康
に味方する黒田長政を通じて家康に伏見城攻
めのことを謝罪し、「石田三成に恩義があり、
その恩返しをして、憂いなく味方に加わりた
い」と言い訳して、病気療養を理由に謹慎し
た。
 秀秋はこの伏見城攻めで、自分がただの小
僧ではなく戦いでの影響力があることを印象
づけた。
 秀秋の脳裏にいつかの「秀秋殿に助けても
らうようでは、わしも隠居せねばならんのぅ」
という言葉が蘇った。
 あえて家康に謝罪することで、その影響力
をさらに高めることができると考えていた。
しかし、それは戦での影響力ではなく、戦が
終わった後の政治的な影響力だった。
 秀秋は、毛利家、吉川家とその一角をなす
小早川家の養子だ。
 養父の隆景という後ろ盾はなくなったが、
その一角が崩れれば毛利一族の存在価値は薄
くなり、この三家が力を合わせれば、家康も
無視できない強大な影響力を誇示することが
できる。この影響力を戦が終わった後に、誰
が天下を取ろうが、最大限利用するためにそ
の力を示す必要があったのだ。
 病気療養と偽り謹慎中の秀秋は、釣りや鷹
狩りなどをして過ごした。
 秀秋が家臣たちと一緒に釣りをして楽しん
でいると、そこに別の家臣が書状を持ってやっ
て来た。
 その書状は三成からのもので、「もうじき
始まる戦に加わり、大垣城に入るように」と
の要請だった。その後も三成から再三、出兵
要請があったが秀秋は応じなかった。
 秀秋は家康の反応をうかがっていたが、家
康からは秀秋に何の接触もなかった。しかし、
秀秋が三成の要請を固く断っていると報告を
受けた家康は、秀秋に使者を送り、出兵要請
を持ち掛け、探りを入れてくるようになった。
このことで家康が、秀秋の兵一万人を超える
部隊を無視できなくなっていることが分かっ
た。しかし、秀秋はすぐには応じなかった。
 秀秋は、こうして家康をじらすことで、ど
れだけ自分を評価しているかを知ろうとした
のだ。