2013年6月24日月曜日

主戦場

 天候は霧雨から豪雨に変わり、西風が吹き
始めていた。
 やがて各部隊は関ヶ原へと集結した。
 東軍は、桃配山に本陣を置いた徳川家康を
中心として、その前後を中山道沿いに各部隊
がまるで伸びきった龍のように布陣していた。
あとは秀忠が到着して、家康の本陣の側に布
陣すれば魚鱗の陣となる。
 西軍は、東軍と対峙する山沿いに総大将の
宇喜多秀家を中心とした諸大名が、東軍の大
砲の射程距離に入らないように、横並びの鶴
翼の陣で布陣した。
 ところが、毛利輝元の名代として松尾山城
に入城するはずの輝元の養子、秀元と吉川広
家の部隊が東軍側にある南宮山に布陣した。
 これは広家が家康と内通し、何も知らない
秀元に「南宮山は、家康を側面から攻撃でき
る場所」と説明して、誘導したことによるも
のだった。
 家康は、輝元が大阪城から動かず、秀元と
広家が南宮山に布陣して攻撃してくるそぶり
をみせないことで、毛利一族が味方についた
と確信した。しかしこれでは、戦況によって
は寝返るかもしれないという諸刃の刃であり、
家康は警戒を怠ったわけではなく、まだ来て
いない小早川秀秋がどう動くのかを見定める
必要があった。
 三成は、毛利一族がどちらに味方するのか
分からなくなっていた。
 南宮山の秀元には、輝元の相談役、安国寺
恵瓊がついている。そのため、好機とみれば
家康を背後から攻撃してくれるものと三成は
期待した。しかし東軍は、毛利の部隊を敵と
みていれば陣形を変えるか、すでに攻撃して
いてもおかしくない。いまだにそうした動き
はいっこうにない。また、秀秋は病と言って
来る気配もない。これらの状況は、明らかに
西軍から距離をおいている。
 三成は、毛利一族が敵になったとはどうし
ても思いたくなかった。
 秀秋は、毛利秀元と吉川広家の部隊が東軍
側にある南宮山に布陣したが、西軍は松尾山
城の守りを手薄にしているという知らせを聞
きいた。このことから西軍はまだ、毛利一族
を敵だとは思っていないと確信した。
 松尾山城には大部隊が収容できる。それは
秀秋の部隊しかないからだ。
(三成は俺が行くのを待っている)
 そう思うと秀秋は三成が哀れでならなかっ
た。
 ここで、秀秋の部隊が伏見城攻めに参加し、
毛利輝元が大坂城に留まっていることが活き
てくる。これではどうしても西軍は、秀秋が
味方と判断せざるおえない。それを利用すれ
ば松尾山城を争わず奪い取れると考えた。
 秀秋の脳裏に、かつて小田原討伐で豊臣秀
吉が小田原城を包囲して言った「この城は攻
めても無駄じゃ。よいか金吾、奪ってはなら
ない土地もある。戦って勝つことよりも、戦
わずに相手を味方にすることのほうが最善の
策じゃぞ」という言葉がよみがえった。
(松尾山城に入ることができれば、この戦、
皆を無駄死にさせずにすむかもしれない)