2013年6月9日日曜日

対立

 慶長三年(一五九八)三月

 京・醍醐寺三宝院で催された花見には、秀
吉、秀頼、北政所、淀らと、日本に残ってい
た諸大名やその配下の者など千三百人が集まっ
て盛大に行われた。
 朝鮮で何が起きているか知らされていない
民衆は、秀吉のもとで太平の世が永く続くこ
とを願っていた。
 その秀吉は、六歳になった秀頼に跡を継が
せることしか考えていなかった。
 秀頼に対する秀吉の溺愛は増すばかりで、
侍女のきつ、かめ、やす、つしが秀頼に逆らっ
たと言って殺害させるなど、華やかな表舞台
の裏で恐怖政治がおこなわれていた。

 秀秋は五月になって日本に戻り、すぐに大
坂城に出向いた。
 大広間に入ると、すでに家康をはじめとし
た諸大名が居並び、秀秋に対する慰労の言葉
が方々であがった。
「秀秋殿、お聞きしましたぞ。あの清正殿を
救うとはたいしたものだ」
「まったく。さすがわ太閤様が総大将にされ
ただけのことはありましたな」
 そうした中に、秀吉が不機嫌な顔で入って
きたので、一瞬にして静まりかえった。
 秀吉が不機嫌だったのにはわけがあった。
それは秀秋が日本に戻る前のことだ。

 朝鮮から加藤清正救出の知らせを聞いた日
本では大騒ぎになっていた。
「総大将、小早川秀秋様が初陣で大手柄」
 伏見城に居た秀吉も、一報を聞きいて、一
瞬驚いたが、自分のことのように歓喜した。
 今は小早川家に養子にやったものの、かつ
てはわが子として溺愛していた秀秋が、立派
に成長したことは素直にうれしかった。だが
事態は一変した。
 朝鮮では、清正の身の安全を第一に考え、
慎重に行動していた諸大名から、秀秋の勝手
な行動に不満が続出していた。
 諸大名は秀吉に「清正の救出にもたついて
いた」と思われ、処罰されるのではないかと
恐れていたのだ。その中のひとりに島津豊久
がいた。
 豊久は、別の場所で戦っていた伯父の島津
義弘に不満を訴え泣きついた。
「われらは清正殿の身を案じ、念入りに事を
運んでおりましたところ、何の前触れもなく、
秀秋様がお出ましになり、無謀にも突撃され
ました。運良く清正殿の救出はなりましたが、
総大将がこれでは兵の規律が保てません。秀
秋様は初陣の手柄をあせっておられたのでしょ
う。われらは秀秋様の思慮のなさに、このま
までは無駄死にしかねません」
 それを聞いた義弘は、五大老のひとり、宇
喜多秀家にこのことを伝え、秀吉の知るとこ
ろとなったのだ。
 秀吉も興奮から覚めた時、本来の目的を思
い出した。
「誰か、三成を呼べ」
 厄介な相談事には常に石田三成が呼ばれた。
「三成、秀秋のことは聞いておろう」
 三成には良い知らせも悪い知らせも入って
くる。一瞬、迷ったが答えた。
「はっ。総大将として、初陣を立派に成し遂
げられたそうで……」
 三成の目に、秀吉の拳が固く握られるのが
見えた。   
「馬鹿。あれは役に立たんと思うたから小早
川にくれてやったのに……。島津などから不
満がでておる」
 三成はすぐに平伏して、秀吉の話を聞いた。
「これでは西国をつぶせんではないか。三成、
何とかせい」
 秀吉は、天下統一が成り、自分が亡き世で
嫡男、秀頼を頂点とした豊臣政権を磐石なも
のにすることしか考えていなかった。
 そのために、必要のなくなった武力を弱体
化させようと、まず手始めに関以西の諸大名
による朝鮮侵略を企てたのが真の目的だった。
 それが秀秋の身勝手な行動で、諸大名の不
満が爆発すれば、この企てが明るみになり、
秀秋を総大将にした自分への批判も強くなる。
 秀吉はその批判をかわすために、秀秋を処
罰することに決めた。
 三成はため息が出るのをこらえた。