2013年6月18日火曜日

吉継、動く

 慶長五年(一六〇〇)七月二日

 大谷吉継は、家康の命令で兵千人を率いて
会津征伐に向かった。
 その途中の近江に行き、石田三成の真意を
探って、その情報を家康に知らせる役を願い
出て許されていた。
 吉継は、三成の蟄居している近江・佐和山
城に近い、美濃の垂井宿に向かった。
 この近くには関ヶ原がある。
 垂井宿に着いた吉継は、すぐに三成のもと
へ使者を向かわせ、近くに来ていることを伝
えさせた。
 しばらくすると、三成の使者がやって来て、
佐和山城で会うことになり、吉継は数人の従
者だけを連れて向かった。
 佐和山城では、三成自らが出迎え、目に涙
をためて吉継に近づき、吉継の身体を支えた。
 吉継は目が見えなかったが、三成が痩せた
ように感じて体調を気づかった。
 二人は城に入り、三成はまるで書物庫のよ
うに、沢山の書物が積まれている書斎に吉継
を案内し、二人きりで話し始めた。
「周りは全部、書物です。暇というのはあり
がたいものですね。忙しくて読めなかった書
物を全て読み終えましたよ」
 この年で三成は四十一歳、吉継は四十二歳
とそんなに年齢は離れていないが、三成は吉
継を兄のように慕い敬っていた。
「そうか元気そうでなによりだ」
「はい。人というのは、己の行く道を決める
と肝がすわるものですね」
「ほぅ。もう決まったか。して、どう決めた」
「はい。まず大坂城に入ります。それから秀
頼様に『後見人は輝元殿だ』と、天下に号令
していただきます。そして、家康を逆臣とし
て、輝元殿に討伐命令を出していただきます。
それでも家康が刃向かうようであれば伏見城
を焼き払い、大坂城に籠城して迎え撃ちます。
この時、場合によっては、帝に輝元殿の居城、
広島城にお移り願います。すでに輝元殿には
了承をえています」
「後は豊臣家を見限った者たちがどう動くか
だな」
「そちらの手はずはどうです」
「牙はもいだが、家康の優位は変わっていな
い。予想以上に豊臣家に反感を持つ者が多い
ぞ。今の秀頼様にどれだの効力があるか。も
う少し時があれば家康は自滅するのだが」
「時のめぐりあわせを嘆いてもしかたありま
せん。この結果いかんでは異国に侵略される
ことも覚悟しなければいけないのです。我々
は今やれることを考えるのみです」
「そうだな。この話を家康が聞いて和睦の道
を選べばよいのだが」
「私もそれを願っています」
 吉継は従者を呼び、三成の考えを書いた書
状を家康に渡すように命じた。

 次の日

 三成は、吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らと
会って相談し、輝元を盟主にすることが決め
られた。
 この時の話も、吉継によって家康に伝えら
れたが、同時に長盛からも密告されていた。
 家康は、吉継と長盛の情報を照らし合わせ
て嘘がないかを確認するほど用心深くなって
いたのだ。
 それらの情報から、三成が挙兵すると確信
した家康は、あえて誘い出すために老臣、鳥
居元忠と兵千八百人に伏見城の留守を任せて、
家康自ら会津に出陣した。
 三成と吉継は、家康が期待していた和睦の
道ではなく、戦う道を選んだことを知ると、
やむを得ず輝元、長盛、長束正家、宇喜多秀
家らと供に西軍として挙兵し、大坂城に乗り
込んだ。そして、秀頼の正当な後見人は輝元
だと天下に号令した。
 そのうえで家康に、十三カ条の弾劾状を送っ
た。
 この時、家康の密命を受けた長盛は、「輝
元らが、京にいる諸大名の妻子を人質にする」
と、家康に味方する諸大名の屋敷にふれまわっ
た。
 その噂が広まると混乱が起き、密かに逃亡
する諸大名の妻子もいた。
 さらに長盛は家臣に命じて、細川忠興の正
室、ガラシャがキリシタンの洗礼を受け、自
刃することができないことをいいことに、殺
して西軍の仕業に仕立てた。
 このことで西軍は立場を悪くし、民衆を家
康の味方につけることに成功した。
 西からは諸大名が次々と大坂に入り、兵の
総数は九万三千人を超えていた。しかし、全
ての者が同じ志で集まったのではなく、長盛
のように家康と内通している者や島津義弘の
ように家康から伏見城の留守居役を頼まれた
が反故にして来た者、また家康そのものに反
感を抱く者などさまざまで、豊臣家を守ろう
とする者はごくわずかだった。
 西にいて家康に味方すると言えば、すぐに
足止めされ、その時点で戦になるかもしれな
いだろう。
 誰もが、西軍を装うのは当然で、そうした
中に、筑前から多数の兵を連れてこなければ
いけない秀秋も混ざっていた。