2013年8月14日水曜日

和睦

 徳川勢は、秀忠が幸村から罵声をあびせら
れたことを知ると、兵糧攻めの気の抜けた状
態から一気に闘争心が高まった。
 幸村は、味方の豊臣勢からの疑いをはらす
には徳川勢と戦うしかないと策を練った。そ
して、幸村の曲輪の近くにあった丘、篠山に
伏兵を送り、前田利常の部隊が城攻めの準備
を始めると、神出鬼没の攻撃をして妨害した。
 これが更に、前田部隊の闘争心をあおり、
本多正重、山崎長徳らが利常の命令をきかず、
夜になって篠山を攻めた。しかし、その時に
はすでに幸村の伏兵は撤収していた。
 朝方になると、今度は曲輪から真田部隊の
攻撃を受けた。
 幸村をあなどり、勢いに乗っていた前田部
隊は、自然の流れに巻き込まれるように曲輪
に殺到した。そこを真田部隊の鉄砲衆に、一
斉射撃され多数の兵を失った。
 銃声を聞いた井伊直孝、松平忠直の部隊は、
攻城戦が始まったと勘違いして、居ても立っ
てもいられず出撃した。
 しばらくすると大坂城内で爆発音が鳴り響
いたため、ますます徳川勢の気勢が上がり、
各部隊が外堀に殺到した。そこを、待機して
いた豊臣勢に反撃され大敗をきした。
 気づいた家康が退却を命じたが混乱してし
ばらくは収拾がつかないほどだった。
 このことがあって兵による城攻めは戒めら
れた。それに代わって、大量に用意された大
砲による昼夜をとわない砲撃で豊臣勢を眠ら
せず、疲労困ぱいさせる策にでた。
 大坂城内にまでとどく砲弾に、豊臣勢の士
気は低下していった。そして、誰もが自刃を
覚悟し始めた頃、家康の方から和睦の誘いが
あった。しかもその条件は「大坂城の本丸の
み残し、二の丸、三の丸は取り壊す。そして
大野治長、織田有楽から人質を出すこと」だ
けだった。
 これを知った幸村や後藤又兵衛らは、最終
決戦をすることを訴えた。
 浪人たちには行き場所はどこにもなかった
からだ。しかし、淀はすぐに次の戦があるこ
とを悟った。そこで、集まった浪人たちには
このまま雇い入れておくと告げて納得させ、
和睦を受け入れることに決めた。
 徳川勢では、勝戦に向かっていての和睦に
敗戦気分が漂っていた。しかし、家康は上機
嫌で将兵の労をねぎらってまわった。
 道春は、撤退準備がすすむ茶臼山から大坂
城を見ていた。
 所々からまだ煙が出ている無残な城の姿に、
秀吉の老いた姿が重なって見えた。それと同
時に、淀が秀吉の遺志を成し遂げようとして
いる壮絶な姿も見てとった。
 気がつけば家康が山を下っていた。
(大御所様は関ヶ原での失敗から多くを学ば
れた。始めは攻めておいて後に退く。淀殿は
誘いに乗ったが、難しいのはここからだ)
 和睦が成立した翌日から、秀忠は大坂城の
外堀の埋め立てを命じた。
 徳川勢が真田部隊に苦しめられた曲輪が真っ
先に破壊され、その廃材や土塁などが外堀に
投げ込まれた。
 外堀は短期間に埋め立てられ、徳川勢は次
に三の丸を取り壊した。それが終わると今度
は、豊臣勢が取り壊す取り決めだった二の丸
も壊し始めた。
 これに大野治長が抗議したが、あっという
間に取り壊され、内堀も埋め立てられた。
 家康は、取り壊しの途中で京・二条城に入
り、しばらくして駿府に戻った。
 秀忠は、全てが完了したことを見届けると、
京・伏見城に留まった。

 慶長二十年(一六一五)

 道春は京の自宅に、父、信時と弟、東舟を
迎えて新年を穏やかに過ごした。
 大坂城は本丸だけとなり、祭りの櫓のよう
な、無防備で心もとない状態となっていた。
 城内で秀頼は、不安にさいなまれ落ち込ん
でいたが、淀は更に自信を深めていた。
 豊臣勢の損失は多かったが、ほとんどの浪
人が留まり、団結力が強くなり、かえって統
率がとれるようになったからだ。
 大坂の民衆はおおいに盛り上がり、圧倒的
な大軍の徳川勢に一歩も引かず和睦に持ち込
んだ秀頼に拍手喝さいした。また、秀頼がキ
リシタンを受け入れたことで幕府に弾圧され
ていた宣教師や信者が集まり、食糧などの物
資の支援も途絶えることがなかった。
 戦続きで殺し合いに麻痺していた民衆は、
この戦を祭りの喧嘩程度にしか思っていなかっ
たのだ。
 その様子に毛利勝永は顔を曇らせた。
(地獄でも暮らしていれば慣れるのか)
 勝永は、子の勝家と供に大坂城に入ってい
た。関ヶ原の合戦では、毛利秀元の与力とし
て南宮山に布陣したが、毛利部隊は動かず、
これが豊臣家の立場を悪くしたのではないか
と後悔していた。
 勝永親子は、秀頼の招きでこの戦に加わっ
たが、関ヶ原の合戦でのこともあり秀頼の側
近からは、その忠誠心が幸村と同じように疑
われていた。
 その幸村も子の幸昌と来ていて、戦いに対
する考え方などで意気投合し、行動を供にし
ていた。
 幸村と十歳年下の勝永は、兄弟のようでも
あり、お互いに唯一の理解者として打ち解け
た。それはまるで、大谷吉継と石田三成が復
活したようだった。