2013年8月7日水曜日

人心掌握術

 道春は、駿府の自宅で赤子をあやしていた。
 三十歳を過ぎて、亀との間に男子、叔勝(よ
しかつ)が誕生したのだ。
 小早川秀詮の時に別れた妻との間にできた
子らとは、二度とふれあうことはできない。
それだけに、この叔勝を抱くことの喜びはひ
としおだった。
 亀が別の部屋から声をはった。
「旦那様、もうそろそろ、お城においでにな
らなくては、ならないのではないですか」
「おお、もうそんな頃合いか。分かった。す
ぐに仕度をする」
 亀が、手ぬぐいで手を拭きながら部屋に入
り、叔勝を道春から受け取った。
「はよう、はよう。大御所様に怒られますよ」
 まだ幼さの残る亀だったが、叔勝を産むと、
とたんに母親の強さを見せ始めた。
「心配いらん。このところ大御所様は、吾妻
鏡ばかり読んでおられる。今日もそれを側で
見ているだけじゃろう」
「お仕事のことはよく分かりませんが、お待
たせするのはよくありません。ささ、お仕度
を」
「分かりました」
 道春は残念そうに叔勝と別れ、仕度をして
自宅を後にした。そして、駿府城に着くと、
いつものように吾妻鏡を用意して待っていた。
そこに、家康とその後にもう一人が入って来
た。
 道春は、すぐに平伏したので、家康の他に
誰かの足元しか見えなかった。
「道春、面を上げよ」
 道春が顔を上げると、家康の前に片桐且元
が座っていた。
「道春、片桐且元殿じゃ。先の方広寺の一件
で、ここに来た時、天海、崇伝らと供におう
ておろう」
「はい。その節は、お顔を拝見するだけで、
お言葉を交わすことはかないませんでした。
道春と申します。以後、お見知りおきを、よ
ろしくお願いいたします」
「こちらこそ、再びお会いできて光栄にござ
る。あの時は天海殿、崇伝殿に詰問されて、
道春殿のことは気がつかなんだ」
「お恐れながら、片桐様は、あの賤ヶ岳の七
本槍のお一人の片桐様ですか」
「いかにもそうでござるが、それは昔のこと。
今は見てのとおりの老いぼれにござる」
「片桐殿、そなたが老いぼれならわしはどう
なる」
 家康がいたずらっぽく聞いた。
「これは失言。誠に申し訳ございません」
「よいよい。これから老いぼれ同士、手を携
えて天下泰平のため、最後のご奉公をしよう
ぞ」
「ははっ」
「道春。片桐殿はのう、豊臣家から逃げてこ
られたのじゃ。先の方広寺の一件、わしは何
の疑念もないと言うたのに、淀殿がそれを逆
手にとって、世間に、わしが因縁をつけてい
ると触れ回った。それだけなら、わしは何も
とがめるつもりはない。現に、方広寺の梵鐘
はそのまま寺に納まっておる。しかしじゃ。
淀殿は、交渉役にしたこの片桐殿を責め、命
まで奪おうとしたのじゃ。片桐殿がどれだけ
豊臣家のために心血をそそがれたことか。わ
しは悔しい。老いぼれたというて、ぼろ草履
のように扱うとは……」
 家康は言葉を詰まらせ、声を出して男泣き
した。それにつられて且元も泣き出した。
 道春は、それが芝居だとは分かっていたが、
心をかき乱され、つられてもらい泣きしそう
になった。それでもかろうじて冷静さを装っ
た。
 且元は心底、感動していた。
「大御所様。わたしのような者のために、わ
がことのようにお心を傷め、お嘆きいただく
とは……。この且元、大御所様にこの余生い
くばくもない命、捧げまする」
「なにを申される片桐殿。そなたはわしより
も長生きして、この徳川家のために力を貸し
てほしいのじゃ」
「もったいなきお言葉。恐れ多いことにござ
います」
 道春は、家康が古狸などと陰口を言われ、
警戒されながらも、多くの者から慕われてい
るのが、この時、分かったような気がした。
そして、この迫真の芝居を自分に見せること
で、裏切ることのないように諭しているのだ
と感じた。それと同時に、いよいよ大坂攻め
が始まるのだと心を引き締めた。