2013年8月29日木曜日

蚊帳の外

 道春は、元和三年(一六一七)四月に京か
ら江戸に赴いた。そして、秀忠に伴って日光
山の日光東照社へ向かった。これには崇伝も
加わっていた。
 一行は、すでに家康の遺骸が納められた社
殿に参拝した。
 日光東照社は、五ヵ月ほどの短期に造られ
たため、これが天下を取り、天皇をも超えた
存在になろうとしている家康の社かと思われ
るほど飾り気のない社殿となっていた。
 それでも秀忠には、一区切りをつけた安堵
感があった。
 道春の目には、久しぶりに会った秀忠のな
りふりが、家康に似てきているように映った。
しかし、秀忠の周りには側近が取り巻き、道
春が家康の側に近づけたような親近感はなかっ
た。
 同じように家康の側近だった崇伝は、秀忠
の側で影響力を増していた。その姿に道春は
一抹の不安を感じた。
 江戸城に戻った道春は、しばらくして秀忠
に呼ばれた。そこには弟の東舟も秀忠の側に
座っていた。
「道春、ようやくそなたと話ができる。そう
じゃ、子が産まれたそうじゃな」
「はっ、お忙しい中、お呼びいただき光栄に
ございます。また、我が子のことまでご存知
とは、恐れ入ります」
「なぁに、父上が身まかって落ち込んでおっ
たが、めでたい話には心が癒される」
「それは我が子にとっても名誉なことにござ
います」
「ところで、わしはそなたの弟の東舟を側に
置くことにした。道春には崇伝の手伝いをし
てもらいたいのじゃが、どうじゃ」
「ははっ、謹んでお受けいたします」
「それは良かった。では早速じゃが、近々、
朝鮮から使者が参る。その準備に京に戻って
もらいたい」
「ははっ」
「よろしく頼んだぞ」
「はっ」
 すぐに道春は京に戻り、伏見城に登城した。
そこには朝鮮の使節を受け入れる準備をする
崇伝の姿があった。
 道春は挨拶をすませると作業に加わり、崇
伝の手伝いをした。
 朝鮮の使節は、幕府が豊臣家を滅ぼしたこ
とを祝うために来ることになったのだ。
 到着した朝鮮の使節は、秀忠からの国書に
「日本国王」と書かず「日本国源秀忠」と書
いていることに疑念を抱いていた。
 朝鮮の使節から問いただされた幕府は、土
井利勝、本多正純、安藤重信、板倉勝重、崇
伝などが集まり協議した。その末席に道春も
加わった。
 日本は朝鮮を対等の国とは認めず、未開人
のように見下していたため「日本国王」と書
いた国書を送るほどの相手ではないという慣
習があった。
 崇伝はこれにならい今度も「日本国王」と
書かないことを主張した。
 それに道春も賛同し、さらに朝鮮人に敬称
すら必要ないと主張して秀忠に承認された。
 道春の中に(戦をなくした日本こそがどの
国よりも理想の国だ)という気持ちが芽生え
ていた。
 次の日、朝鮮の使節が伏見城で秀忠に謁見
する席に道春が呼ばれることはなかった。