2013年8月23日金曜日

目覚めた龍

 秀忠は、大坂城で戦のどさくさに逃亡した
豊臣勢の残党狩りをする一方、豊臣秀吉が豊
国大明神として祀られている京・豊国神社の
取り壊しを崇伝に命じた。
 民衆をも巻き込んだ残忍な戦と精神的支柱
だった豊国神社の取り壊しは、幕府に対する
不満を増大させ、将来に対する不安と絶望が
広がった。そこで、秀忠はすかさず一国一城
令を発した。
 秀吉の天下統一後も、戦に備えた強固な城
が各所に造られ、諸大名の権勢を競い合って
いたが、一国一城令により、大名の居城だけ
を残し、防御の要の城が次々に取り壊されて
いった。
 それを目の当たりにして、民衆は始めて戦
がこの世から完全になくなったのだと実感し
た。
 更に、秀忠は武家諸法度を崇伝に起草させ、
伏見城に諸大名を集め布告した。
 武家諸法度は十三ヶ条からなり、教養を身
に着けることや生活態度を戒め、築城の禁止
と修築の届出、家臣の登用などにも配慮して
謀反に目を光らせ、結婚の許可や衣装、輿に
乗れる者の条件などまで幕府の指示に従うよ
うに命じている。
 これにより、諸大名の改易や領地転封が頻
繁に行われた。それを恐れた領主は、率先し
て質素倹約の生活を実践したため、領民もそ
れに習い、法度の効果が身分をこえて末端に
まで広まった。
 一方、家康は、禁中並公家諸法度を、これ
も崇伝に起草させ、二条城で公布した。
 禁中並公家諸法度は十七条からなり、公家
だけでなく天皇までも行動が規制され、幕府
の管理下に置かれた。
 世間はここにきてようやく、徳川家が天皇
をも超えた存在になったことを知った。
 これらの起草で発言権を強めた崇伝は、秀
忠に進言し、かねてから朝廷に特別扱いされ
て対立していた大徳寺、妙心寺の行動を規制
する寺院諸法度を布告させた。そして、自ら
が宗教界を統制する任に就いた。
 道春はこうしたことに加わることもなく、
もっぱら雑用をして、八月に家康が駿府に戻
るのに同行した。
 家康は、武家諸法度の「武芸や学問に励む
こと」や禁中並公家諸法度の「天子の習得す
る第一は学問なり」を自ら実践するように、
道春を傍らにして論語を読み質疑した。
 政務は完全に秀忠が取り仕切るようになり、
その厳格さは家康以上と世間は戦々恐々とし
ていた。
「道春、そなたは以前、秀忠を眠れる龍と言っ
ておったが、どうやら龍が目覚めたようじゃ。
道春はどう思う」
「はい。私もそのように思っております。今
は上様のやり方に、厳し過ぎると言う者もお
りましょうが、新しいことを行うのですから
無理もないこと。そのうち慣れましょう」
「そうじゃな。しかし、息苦しいのはような
い。気を緩めるところは緩めてやらねばな」
「大御所様の仰せのとおりにござます。物を
上から抑えつければつぶれましょうし、川を
せき止めれば溢れます。物は掌にのせて動か
し、川は少しずつ流れる向きを変えてやるの
がよろしい。同じように人も命じるより、そ
うしたいと思わせることが、肝要ではないで
しょうか」
「それにはどうすればよいか」
「はっ、私は先の大蔵一覧を開版させていた
だいた時、作業にあたった者たちが、朝鮮に
負けないものに仕上げようと、おのおのの技
量を極めていた姿を見て、人は目指すものが
決まれば、それに向かって努力するのではな
いかと思いました」
「目指すものを決めてやるのじゃな」
「はい。大きくは天下の行く末、小さくは民
の役割を示すことにございます」
「ふむ。それが秀忠にも分かればよいが」
「お分かりになりましょう。なによりも今、
上様がご自分の役割を見つけて、おおいに励
まれておられますから」
「では、わしも自分の役割を見つけるとしよ
う」
 家康は、老いてもまだ自分の能力を極めよ
うと、武芸や学問に励んだ。その姿を見せる
ことで、戦乱の世の次にくる、民衆の生き方
を指し示した。