2013年8月16日金曜日

戦ふたたび

 道春は、駿府城の家康に呼ばれていた。
「道春、以前に崇伝が持って来た大蔵一覧は、
大蔵経の事項がよう整理されて調べやすい。
これを開版して寺に寄進しようと思う。銅活
字は大方出来ておるからそれを使って、百部
か二百部を刷ってくれ」
「ははっ」
「わしはこれから、大坂に向かう準備をする。
道春はそれに専念してくれ」
「はっ、すぐに取り掛かります」
「以上じゃ。下がってよい」
「はっ」
 道春は一礼して下がった。
 二人の間には、言葉を交わさなくても心に
通じるものがあった。
(大御所様がいよいよこの世から戦をなくさ
れる。大坂は地獄になるが、誰にもその意味
が理解できんであろう)
(道春め、何も聞こうとせんかった。そなた
を生かす、わしの心が読めたか。小賢しい奴
じゃわい)
 駿府城内は、大坂への出陣で慌しくなった。
それを横目に見ながら道春は、版木衆の校合、
字彫、植手、字木切の職人ら十八人と清見寺、
臨済寺の僧、六人を集めて作業の準備を始め
た。
 道春も戦に加わりたいと思わずにはいられ
なかったが、家康から後のことを託された気
持ちも痛いほど分かり、作業に専念した。
 銅活字やそれを使って刷るための道具は、
豊臣秀吉の時代に、文禄の役で朝鮮の漢城か
ら持ち帰った物があった。しかし、家康は、
慶長十年(一六〇五)から、円光寺の元佶長
老や円光寺学校の校長となった僧、元信を監
督として、浜松海岸に漂着した福建人、五官
の貨幣鋳造技術を利用して銅活字の鋳造を始
めた。
 道春が大蔵一覧の開版を命じられた頃には、
八万九千字余りの活字が出来ていたが、更に、
一万三百字余りを鋳造する必要があった。
 大蔵一覧は全部で十一冊あり、一字一字活
字を拾っていく地道な作業が続いた。

 家康は、慶長二十年(一六一五)四月十八
日に京・二条城に入った。
 四月二十一日には、秀忠も二条城に到着し、
諸大名も次々に集結した。
 先に動いたのは豊臣勢で、大野治房の部隊
が、以前から徳川勢に寝返って大和郡山城を
守っている筒井定慶を攻撃した。そして、こ
れを落城させると、続いて徳川勢の物資調達
地だった堺を焼き討ちした。
 これに対して、徳川勢の浅野長晟の部隊が
反撃に向かった。
 それを知った大野治房は、浅野長晟の部隊
の背後で一揆を起させた。
 民衆には、徳川家の強引なやり方に不満が
募り、徳川不人気が浸透していた。そのため
劣勢の豊臣勢でも味方したのだ。
 浅野長晟の部隊は、やむなく泉南・樫井に
留まった。
 大野治房は攻撃を試みたが、戦法のまずさ
から部隊の統率が乱れ、岡部大学、塙団右衛
門、淡輪重政らが先陣争いをおこない単独行
動したため、次々に討ち死にした。
 やがて敗退した大野治房は大坂城に戻った。
 これを知った家康は、豊臣勢の結束の弱さ
を見て取り、この戦を短期で終結させる自信
をもった。
 この頃の家康には、重たい甲冑を身に着け
るだけの体力はなくなり、軽装のまま五月五
日に二条城を発った。
 伏見城にいた秀忠も、大坂・河内に向かっ
た。
 豊臣勢の真田幸村、毛利勝永、後藤基次は、
河内の途中、国分で徳川勢を迎え撃つ策を決
めた。
 この頃、辺りは濃霧がたちこめ始めていた。
 基次は、藤井寺で幸村、勝永の部隊を待っ
ていたが、予定の刻限になっても来ないため、
先に出発した。
 この時、幸村、勝永の部隊は、秀頼と淀を
遁れさせるための通路を、大坂城内の台所の
中に掘っていた。
 通路が掘り終わった頃には、霧が濃くなっ
ていた。
 幸村、勝永の部隊はやっと出発したが、濃
霧に阻まれていたのだ。
 基次が国分に到着した時には、すでに徳川
勢が待機していた。
 基次は、幸村、勝永と同じように、徳川に
内通しているのではないかと、豊臣勢から疑
われていたため、ここで引き返すわけにはい
かず、討ち死にする覚悟で戦う準備を始めた。
これに迎え撃つ伊達政宗、水野勝成の部隊が、
一気に攻めてきたため、基次は討ち死にした。
 しばらくして到着した豊臣勢の明石全登、
薄田兼相の部隊も敗れ、兼相が討ち死にした。
 国分で豊臣勢の敗色が濃くなった頃、よう
やく毛利勝永の部隊が到着した。それに続い
て真田幸村の部隊も到着した。
 幸村は、残っている豊臣勢の救出に向かっ
た。そこに、伊達政宗の部隊から出て来た片
倉重長の鉄砲隊が銃撃した。これに幸村の部
隊が応戦し、重長の鉄砲隊を退けた。
 一方、河内から大坂城に向かっていた家康
のいる本隊は、濃霧の中から突如現れた豊臣
勢の長宗我部盛親、木村重成、増田盛次の部
隊と遭遇した。
 すぐさま徳川勢の中から、藤堂高虎の部隊
が迎撃に向かい、霧の中での混戦が続いた。
 一時は高虎の部隊が劣勢になったが、徳川
勢の井伊直孝の部隊が援軍に駆けつけて、重
成が討ち死にするなど、今度は豊臣勢のほう
が劣勢となり、盛親らはやむなく大坂城に引
き返した。
 盛親らの撤退の知らせを聞いた幸村、勝永
は、こちらも撤退することを決め、勝永の部
隊が徳川勢を引きつけている間、幸村は残っ
ていた豊臣勢を大坂城に撤退させた。
 これらの戦いで双方に多数の損失があった
が、どちらも最終決戦と覚悟を決めて正面か
らぶつかり合うことを望んでいるようだった。