2013年8月5日月曜日

方広寺梵鐘

 これまで道春は、京と駿府を行き来してい
たが、駿府での仕事が多くなったため、妻の
亀と供に駿府に移住することにした。
 江戸では、弟の林信澄が正式に秀忠の側に
仕えることになり、名を永嘉と改め、道春と
同じように剃髪して東舟という号を賜った。
これにより、江戸での情報が手に入りやすく
なり、竹千代のお守役として影響力を増して
いた福との連絡もしやすくなった。
(全ては正成の考えていた通りになった。正
成は今頃、何をしているだろうか)
 道春は、こうなることを見通していたかの
ような、かつての家臣、稲葉正成の知略にあ
らためて感心した。
 その正成は、美濃にあって着々と出世の道
を歩んでいた。
 武士が出世するには、戦で手柄をたてるの
が一番手っ取り早い。
 今の世は、天が正成に味方するように、徳
川家と豊臣家の間で戦になるという噂がちら
ほら聞こえてくるようになっていた。
 戦になった時、主君を誰にして盛りたて補
佐するかも重要だ。そこで正成は、家康の次
男で越後の松平秀康の子、忠昌を主君と決め、
度々会う機会をもうけ、信頼を得るようにつ
とめた。
 忠昌は、正成の武勇伝と世の中の情勢を聞
くのを楽しみにするようになり、「今後、何
かがあればすぐに参じるように」と命じた。
 正成は、小早川秀詮の筆頭家老として補佐
していた頃を懐かしく思った。
(かつては秀詮様の家臣となったことを恨ん
だこともあったが、思えばあの頃が一番、や
りたいことを存分にやらせていただいた。今
頃、秀詮様はどうなさっているのであろうか)
 一心同体のようにすごした日々は、正成と
今は道春となった秀詮に、くしくも同じこと
を考えさせるようになっていた。
 今は道春の側に正成のような逸材が家臣に
つくような身分ではなくなったが、それに代
わって、崇伝が何かと近づいてきた。
 もっとも、同じような仕事をしていたので
よく会うのは当然なのだが、それにしても人
懐っこい犬のようだった。
 崇伝の出世にとって、最大の障害は南公坊
天海だったが、当面の障害である道春に近づ
き、仕事を引き継ぐかたちで道春にとって代
わり、天海に挑もうとしていた。そして、そ
の機会が訪れようとしていた。

 駿府城内で家康は、側近の本多正純と談笑
していた。そこに小姓が入り、「崇伝がお目
通りを求めております」と告げた。
 今まで目立たない存在だった崇伝の急な用
件とは何か、興味がわいた家康は目通りを許
した。
 崇伝は、今まで見せたことのない精気に満
ちた顔で、堂々と入って来た。そして、挨拶
を済ませると、手に持っていた紙を広げた。
それは何かの拓本だった。
「この拓本は、こたび秀頼様が再建された、
東山方広寺の梵鐘に刻まれた銘文にございま
す。こちらをご覧ください。『国家安康』『君
臣豊楽』とあります。これは、お恐れながら、
大御所様の名を分かち、豊臣家を君主として
繁栄を願っていると読み取れます」
 それを聞いた正純が血相を変えた。
「なんじゃと、許せん。断じて許せん。これ
までの大御所様のお心遣いをなんと思うてお
るのか。その梵鐘、即刻叩き壊してくれる」
「まあ待て正純。崇伝、よう見つけてくれた。
確かにそうとも読めるが、軽々に判断するこ
とはできん。まずは豊臣家の真意を知る必要
があろう。正純、手配せい」
「ははっ」
 正純が立つと、崇伝も礼をして一緒に立ち
去った。
 まだ血相を変えたままの正純と、その後ろ
に勝ち誇ったような顔の崇伝が廊下を行くと、
ちょうど家康のもとに向かう道春とすれ違っ
た。
 二人のただならぬ雰囲気に道春は、廊下の
はしにより、頭を下げた。
 家康は拓本をながめながら思案していた。
そこに道春がやって来たので手招きをした。
「道春、今、呼びに行かせようと思っておっ
た。ちょうどよい。これをどう思う。方広寺
の梵鐘の拓本じゃ」
 家康は拓本の「国家安康」「君臣豊楽」の
部分を指差した。
 それを見た道春は、正純と崇伝の様子が変
だった原因がこれだと分かり、とぼけてみた。
「お恐れながら、文字通り、この国の平安を
願ったものだと思います」
「そうか。崇伝は、この国家安康はわしの名
を分かち、君臣豊楽は豊臣家を君主として繁
栄を願っていると言っておった」
「おお、それは崇伝殿の言われたことに間違
いありません。で、大御所様にはなにか違っ
たお考えでもおありなのですか」
「いや、そうではない。しかし、これをもっ
て軽はずみに事を起せば、豊臣家の思う壺で
はないかと考えておった」
「さすがわ大御所様、大局を見ておられる」
「下手な世辞はよいから、道春の存念を申せ」
「はっ。大御所様のご明察のとおり、これに
より事を起せば、世間の笑い者になるだけで
しょう。もし、徳川家への恨みを刻むのなら
『徳川』の文字か、お恐れながら、今の将軍
である上様の『秀忠』の文字を分つと思いま
す。親が子に自分の名の一字を与えることは
よくありますが、それも名を分つことにはな
りませんか。それに、方広寺は秀吉公が建立
した寺。それを承知で、大御所様は再建を薦
められたのではないですか。仮に豊臣の文字
が刻まれたとしても、何の問題もありません。
大坂には独特な洒落の文化があります。これ
は洒落です。笑いとばしたほうが世間は大御
所様の心の広さを尊ぶと思います。梵鐘に名
が刻まれることは名誉ではないですか」
「やはりそうであろうか。しかし、わしに戦
いを挑んできているようにも思うのじゃ。道
春が以前言っておった淀殿の兵法。これがそ
の布告とも思えるのじゃ」
「あるいはそうかもしれません」
 二人は、淀が相当手ごわい相手だと身をひ
きしめた。
 それからすぐに多数の僧侶が集められ、道
春も加わって梵鐘に刻まれた銘文の解釈につ
いて議論がおこなわれた。そしてこのことが
世間にも知れ渡った。