2013年8月8日木曜日

本当の泰平

 しばらく二人の興奮が冷めるのを待ち、家
康が落ち着くと且元に聞いた。
「ところで、わしにはどうも解せぬことがあ
る。こたびの豊臣家の浪人集めじゃ。あまり
にも多くはないか」
「はっ、それは、もっとものご懸念。お恐れ
ながら、方広寺の一件で大御所様のお怒りに
ついて、世間に触れ回ったところ、思いのほ
か浪人が多く集まったものと思います。しか
し、これは兵糧攻めにするには好都合ではご
ざいませぬか」
「それなのじゃが。わしは兵糧攻めをせんつ
もりなのじゃ」
 且元と道春は、意外といった顔をした。
「もちろん、あの大坂城の構えを考えれば、
兵糧攻めが上策じゃろう。先に、難攻不落と
言われた小田原城を秀吉公と兵糧攻めにした
が、あの時は、北条を屈服させれば良かった。
しかし、こたびは屈服させただけではすまん。
豊臣家を討ち滅ぼさねばならんのじゃ」
「お恐れながら、それならばこそ兵糧攻めに
して、秀頼、淀の命と引き換えに他の者を許
すと申せばよいのではないですか。小田原城
攻めの時も、そのようにされたのは大御所様
のご尽力ではないですか」
「確かにそうじゃ。それで天下統一もなった。
一時の平安にもなった。しかし、それはうわ
べだけのことじゃ。その後、諸大名の力は益々
盛んになり、領民を力でねじ伏せる恐怖の治
世じゃ。秀吉公はそれをあおるように、朝鮮
出兵を強行された。その結果はどうじゃ。出
兵した諸大名の領地は荒れるにまかせ、東と
西との関係を悪化させただけじゃ。わしはな、
本当の泰平の世を見てみたい。それを子や孫
に残したい。関ヶ原での合戦はその大一歩で
あった」
「恐れ入りました。大御所様の遠大なる計。
且元の小心、恥じいるばかりにございます。
願わくばこの先、どのように大坂城を攻めら
れるのか、大御所様のご内心をお聞かせいた
だきとうございます」
「よかろう。まず、短期決戦にでる。そして
頃合いをみて和睦の使者を送る。その和睦の
条件は、城の堀を埋めるということだけじゃ。
それが成り、堀が埋められれば再度出兵し、
最終戦を仕掛ける。もし和睦が成らん時は、
城に毒を霧のようにして放つ。毒は蛇や蜂、
百足(むかで)の毒を集めたものじゃ。これ
を使うとしばらくは誰も城に近づくことがで
きん。犬や猫を放って様子を伺い、後に城を
取り壊す」
「これは前代未聞。そのようなことをすれば、
誠にお恐れながら、大御所様のご威光が失わ
れるのでは」
「わしの威光など、どれほどのものか。わし
はな、天下泰平がなるのなら、どのような雑
言もあびるつもりじゃ。わしひとり、鬼畜と
なってすべてを背負って、あの世に行くつも
りじゃ」
 且元は感激して言葉にならず、また泣き始
めた。
 道春も、さすがにこの策略のすごさに、家
康の大器で押しつぶされそうになる思いで頭
をたれた。
 片桐且元は落ち着くと言った。
「大御所様、この戦について、道春殿のお考
えを聞きとうございます。いかがでしょうか」
「おぅ、そうじゃな。道春、そなたの存念を
遠慮のう申せ」
「はっ。では、申させていただきます。お恐
れながら、大御所様の心の内、わたしのよう
な俗人には驚嘆するばかりにございます。お
そらくこれが、この日本で最後の大戦となり
ましょう。毒をもって毒を制するという言葉
がございます。戦をもって戦を制するのも道
理にかなっております。なんとしてもこれを
成就させなければなりません。しかし、二つ
の懸念があります。大御所様のお考えには、
秀頼様あるいは淀殿のご決断も必要です。今、
籠城して城を枕に討ち死に覚悟でおられるの
に、堀を埋めるという和睦がなりましょうや。
和睦を拒み、なおも籠城して毒により多くの
者が死ぬことにでもなれば、これは戦ではな
く、たんなる惨殺。この後の幕府への反感は
増しましょう。男なら武士は武士らしく、戦っ
て死ぬことを選びましょうが、淀殿はおなご。
それが懸念の一つです。もう一つの懸念に、
淀殿がはたして戦い続けるお覚悟があるのか。
大坂城には、幾つかの抜け穴があるはず。こ
れらは大御所様も登城されたことがあり、ま
た、片桐殿がこちらにつかれたことで、すべ
て知られているのは分かっているはずですか
ら、すでに埋めておりましょう。もし和睦を
受け入れ、堀を埋めれば、新たに抜け穴を掘
るのは短くてすみます。そこから秀頼様、淀
殿が抜け出し、どこかにお隠れになられると
したら、将来に不安の種となりましょう。こ
の二つをどう始末するかにかかっておるよう
に思います」
 家康と且元は、しばらく黙って考え込み、
家康が応えた。
「千。そうじゃ、秀頼に嫁がせた千がおる。
淀殿がおなごなら千もおなご。千に説得させ
れば、淀殿もおなごとして母として、堀を埋
めることに同意するかもしれん。どうじゃ」
 且元と道春は深くうなずいた。
「抜け穴については、怠りなく監視するよう
に、秀忠に申し伝えよう。道春、そちの懸念
はこれでなくなったか」
「ははっ。恐れ入りましてございます」
 三人は戦の話を離れ、和やかな中にも緊張
感のある会話を続け、打ち解けた。
 この直後、且元はこの時の会話の内容を密
書にして淀に伝えた。