2013年8月20日火曜日

説得

 二の丸の一室で千は静かに座っていた。そ
の手には小さな菩薩が握り締められていた。
 しばらくして、大野治長が入って来て千の
前に座り、一礼して言った。
「千の方様、どうか、お父上のもとにお戻り
ください。もはやここには秀頼様はおられま
せん」
 千は怒りとも悲しみともつかない気持ちで
身体が震えた。
「秀頼様は生きておられるのですね。私は置
いて行かれたのか。最後まで、私は秀頼様の
妻とは認めてもらえなかったのですね。その
上、生き恥をさらせとは、よく言えたもの」
「そうです。千の方様を秀頼様の奥方とは誰
も思うておりません。ここで死なれては、豊
臣家は千の方様を人質にとって殺したと、末
代まで物笑いの種になりましょう。生き恥を
さらす勇気もないお方を、誰が秀頼様の奥方
と認めましょうや」
「それは詭弁じゃ。私は秀頼様と添い遂げる
つもりでいたのに」
「秀頼様も同じ気持ちにございました。だか
らこそ千の方様に、恥をさらしてでも生きて
ほしいと願っておられるのです。天下を治め
た豊臣家の奥方として、その気概を後世に伝
えてこそ、秀頼様のお心にそうのではないで
しょうか」
「私は秀頼様なしでは生きていけぬ。ただ、
お側にいたいだけなのに……」
「そうしてさしあげられなかったのは我らの
罪。申し訳なく思っております。今となって
は死んでお詫びするしかありません」
「そちには妻や子はおらんのか」
「おります。一緒に死ぬ覚悟でおります」
「それはうらやましい」
「あっ、いえ、申し訳ありません」
「そちも、動揺することがあるのじゃな。ま
あよい。言いたいことを言えば気が晴れまし
た。これ以上申してはわがままが過ぎるでしょ
う。そちの言うとおりにします」
「はっ、恐れ入ります。もしできましたら、
大御所様にほんの少しの間、攻めるのを思い
とどまっていただければ、秀頼様が逃げ延び
やすくなります。それに、山里曲輪の糒庫に
は、火薬が仕込んであります。近づけば火を
点けますので、くれぐれも近づかないように
と、お伝えください」
「分かりました。それはそうと、子らも、秀
頼様と共に行ったのですか」
「いえ。お子はすでに城外の安全な場所に移っ
ておられます」
「そうでしたか。私が産んだ子ではないが、
母子にかわりはない。どんなことをしてでも
助けねば。これで少しは生きていける」
「それは……。いや、よろしくお願いいたし
ます」
「では参りましょう」
 千が二の丸を出ると、堀内氏久が待ってい
た。
 治長は、千が堀内氏久に伴われて大坂城を
後にするのを見送った。
 千と堀内氏久が大坂城を出るのと入れ替わ
るように、戦っていた豊臣勢が戻ってきた。
 大野治長は真田隊の兵卒を見つけると声を
かけた。
「信繁殿はどこじゃ」
 兵卒は無言で泣きながら首を横にふった。
 治長は、その表情だけで十分察しがついた。
「そうか。ご苦労じゃが、山里曲輪に幸昌殿
がおられる。知らせに行ってくれ」
 兵卒は一礼をして、山里曲輪の方に向かっ
た。それを見送った治長の目に、毛利勝永、
勝家の親子が戻ってくるのが見えた。
 落胆した治長にうれしさがこみ上げてきた。
しかし、真田幸村の悲報を伝えなければいけ
ないと思うと、目が潤んできた。
「勝永殿、信繁殿が……」
 勝永は、疲れた顔をしていたが足取りは軽
く、治長に近づいた。
「戻る途中で聞きました。泣いてなどおれん。
すぐに徳川勢がやって来ますぞ。もはやこれ
まで、そちらの手はずはどうですか」
「整っております。では、始めます」
 治長は、台所で待っていた大角与左衛門の
所に急いだ。
「与左衛門殿、始めてくだされ」
「あい、分かった」
 与左衛門が下働きに命じて、台所の周りに
置いた柴に火を点けさせると、勢いよく燃え
上がった。
「ではわしらはこれで行きます」
「達者でな」
 与左衛門たちは、向かって来ていた徳川勢
のもとに走り、予定通り火を点けたことを叫
んだ。
 大坂城内から煙が上がり、やがて二の丸、
三の丸から炎が見えると、徳川勢は一気に城
内になだれ込んだ。