2013年7月11日木曜日

杉原重治

 備前・岡山城に戻った秀詮は、人が変わっ
たように狂いだし、城下に出ては領民に罵声
を浴びせ、乱暴を働いた。また、鷹狩や釣り
などをして遊びほうけ、政務もおろそかになっ
た。しかし、そうした様子を杉原重治は冷静
に見ていた。
 ある夜、秀詮の寝屋に、杉原は密かに入っ
た。
 秀詮は、狂った振る舞いをすることに悩ん
で、なかなか眠れない日が続いていたことも
あり、機嫌がよくなかった。
「何じゃ、杉原か。こんな時分に無礼な」
「はっ、お恐れながら、殿の先ごろの様子を
拝見し、なにやらただならぬものを感じまし
た」
「ただならぬものとは、何じゃ。さっさと用
件を申せ」
「はっ、では率直に申させていただきます。
殿は演技が下手にございます。それでは狂っ
たようには見えません」
「何を申す。わしは狂ってなどおらんぞ」
「それならばよろしいのですが、正成殿も色々
動いているご様子。ぜひ私も加えていただき
たいと思います」
「稲葉がなんじゃ。何をしておるというのじゃ」
「何をしておいでかは存じませんが、殿のた
めに働いておるのは分かります。それに、殿
の振る舞いがお変わりになったのも同じ時期
かと」
「では、杉原はどうしたいと言うのだ」
「殿が、本当に狂ったように見せたいのなら、
もっとも効果があるのは忠義に厚い、諫言を
する者を斬り捨てることです」
「それがお前じゃと言うのか。うぬぼれおっ
て」
「もちろん、他の家臣も私より忠義に厚い者
はおりましょう。しかし、私より殿に嫌われ
ている者が他におりましょうや」
「わしが、お前を嫌っておるじゃと」
「はい、私は日頃から、殿に口うるさくして
いるものですから、心配してくれている者も
おります。その私を斬り捨てれば、誰もが殿
に逆らわなくなりましょう。それが殿をより
狂ったようにみせることになります」
「私は、そなたを嫌ってなどおらん。日頃の
諫言、心の中で感謝しておった。そなたを斬
ることなどできるわけがないではないか」
「殿の手をわずらわせる気はありません。敵
を欺くにはまず味方からと申します。これか
ら起きることに驚かず、今のまま狂ったよう
にお振る舞いください」
「何をする気だ」
「私が殿とお会いする日は、もういく日もな
いでしょう。今までご奉公させていただき、
ありがとうございました」
「杉原……」
「では御免」
 杉原は、秀詮が何か言おうとしたのをさえ
ぎり、足早に寝屋を出て行った。

 その事件は間もなく起きた。

 秀詮の家臣、村山越中は短気な性格で、日
頃から杉原重治と意見が対立していた。
 狂った秀詮の言動で政情不安な中、杉原が
村山に斬り殺されるという事件は、誰もが恐
れていたことだった。
 秀詮のもとに知らせがあり、その真意を確
かめようとした時にはすでに、村山は逃亡し、
杉原の死体は家族のもとに移されていた。
 杉原重治の嫡男、重季は、秀詮が姿を見せ
ると狂ったように罵声を浴びせた。
「なぜ、父上がこのように変わり果てた姿に
ならなければいけないのですか。殿にどれだ
け父上が忠義をつくしたか。これがその返礼
なら、私は殿と刺し違えて死に、父上に会っ
て、殿に騙されていたことを告げたいと思い
ます」
 重季が刀に手をかけたところで、周りの者
が慌ててとめ、押さえつけた。
 秀詮は、それが演技だとは思えず、本当に
杉原重治が死んだのではないかと動揺した。
そしてとっさに、杉原の顔にかぶせてあった
布をはぐった。その死体の顔面は誰か分から
ないように何かで殴られたような無残な状態
で、着物や身に着けていた道具、背格好だけ
で杉原重治と決めつけていたようだった。
(この者は、私のために重治の身代わりとなっ
て殺されたのか)
 秀詮はそれを見た瞬間、冷静になると同時
に狂ったふりをした。
「へへへへ、村山、天晴れじゃ。わしの命じ
たとおり、よう誅殺した。わしに逆らう者は
誰であろうとこうなるのじゃ。重季、わしと
刺し違えるじゃと、無礼な。そんなに重治に
会いたいなら、その望みを叶えてやろう。そ
なたに切腹を申しつける。即刻用意せい」
「望むところだ。こんな馬鹿殿に仕えた父上
が哀れじゃ。あの世で父上に存分に孝行する
わ」
 秀詮は重季の目を見た。涙を流しながら訴
えるその目は、自分を慕っている目だった。
(重季、すまない)
 秀詮が弱気になりそうになると重季はにら
みつけて秀詮に我慢を促した。
 この事件をきっかけに、家臣の秀詮に対す
る不信と憎悪は増していった。
 やがて他の諸大名にも、秀詮の奇行や失態
が知れ渡り、家康の耳にも入るようになった。
(小僧ひとり、雑作もない)
 秀詮は時々、上洛して家康に会うこともあっ
た。しかし、家康はやつれた秀詮の健康を気
遣い、報告されてくる悪行を戒めるだけだっ
た。
 本来なら、すぐにでも小早川家が廃絶にさ
れてもおかしくない事態が起きていたが、何
のお咎(とが)めもないことに、諸大名の誰
もが、家康の企てと薄々感じていた。
 家康も暗に、秀詮をさらし者にすることで、
諸大名に自分の力を誇示するように振る舞っ
た。
(秀詮は怖い相手を怒らせたものだ)
 誰もがそう思い、家康に逆らう者は次第に
いなくなった。