2013年7月31日水曜日

伴侶

 亀は、まだ十一歳の少女だったが働き者で、
もの静かな町娘だった。
 道春が亀に挨拶をすると、最初は警戒して
いたが、毎日、挨拶していると、亀も挨拶を
返すようになった。
 亀の父親の宗意は、道春のことをどこかで
聞き知っていて、すぐに打ち解けた。
 しばらくして、道春が思い切って、宗意に
亀を妻にめとりたいと申し出ると、宗意は一
瞬ためらったが、この頃にはすでに、亀が道
春の弟子たちとも顔なじみで、家族のように
なっていたので快く承諾した。
 婚礼は年の明けた慶長十四年(一六〇九)
の春に行われた。

 駿府では、慶長十二年(一六〇七)の冬に
亡くなった相国寺・承兌長老の後任に、南禅
寺金地院の以心崇伝がなっていた。
 崇伝は、本格的に始まった朝鮮使節使との
外交文書を書くのを主な仕事としていた。
 目立たなかったが、承兌長老とは師弟関係
にあり、まだ残る承兌長老の影響力を利用し
て南禅寺の興隆を狙っていた。
 道春より年上だったが、道春のほうが先に
幕府に入ったこともあり、低姿勢で言葉を交
わした。
 ある日、崇伝が駿府城の廊下を歩いている
と、前から道春が書物を山のように重ねて、
ふらつきながらやって来ていた。
「道春殿、おはようございます。書物が重そ
うですが、お手伝いしましょうか」
「これは、崇伝殿でしたか。おおっと、おは
ようございます。お心遣い恐縮ですが、大丈
夫です。毎日のことですから、お気にならさ
ないでください。おおっと」
「そうですか。では、お気をつけて」
 通り過ぎる道春の後姿に、崇伝は苦笑した。
(やれやれ、あのような者が仕官できるよう
じゃ、幕府というのもたいしたことはない。
わしの出世も早いじゃろう)
 そうした日々が続いたある日、長崎奉行の
長谷川藤広に連れられて明の商人、周性如が
駿府城にやって来ると、家康に謁見した。
 ちょうどその時、道春も家康の側に座って
いた。そこで、道春は筆談により、周性如の
通訳をすることになった。
「この者が申すには、商船で航行中に、日本
の海賊に襲われることがあり、また、明の沿
岸にも現れて攻撃されることもしばしばある
ようで、困っているということにございます」
「その者に伝えよ。このことは、この国と明
との交流が途絶えているためのいさかいで、
こちらとしては交流を再開したいと思ってお
る。しかし、明が受け入れようとしない、と
な」
 道春が、家康の言葉を漢文に書いて周性如
に見せると、周性如も漢文で返答した。それ
を道春は読んだ。
「私の国では、他国との商売は認められてい
るはずで、私の住む福建の役人に、勘合印を
お与えください。と申しております」
「あい分かった。すぐに書面を書くので、そ
れをその役人に見せるように伝えよ」
 それが分かった周性如は、ほっとした様子
で退席した。
 家康は、何気なく道春に命じた。
「道春、そなたがあの者に渡す書面を書け」
「お恐れながら、それは元佶長老か崇伝殿で
なければ書けない慣わしになっておるはずで
すが」
「よいよい。後で崇伝に清書させればよいの
じゃ」
「ははっ、分かりました。それではすぐに書
いてまいります」
 こうして、禅僧以外が書く始めての外交文
書を道春が起草することになった。そして、
できあがった書簡の下書きが崇伝に手渡され
た。それを読んだ崇伝は、その内容の高尚な
ことに驚いた。
(これは、まるで外交文書の手本のような書
き方。これをあの道春が書いたのか……)
 崇伝は、書簡を清書しながら、明の商人と
はいえ、明との外交が自分には何も知らされ
ずにおこなわれ、道春が重用されていること
に、出世の道が楽ではないことを思い知らさ
れた。