2013年7月19日金曜日

確執

 羅山は、家康との問答で高く評価され、伏
見城にある家康所蔵の貴重な書物を閲覧する
ことを許された。しかし、仕官の要請は徳川
家の都合で後回しにされた。
 この頃、徳川家では、秀忠が征夷大将軍に
なる宣下の儀が執り行われた。それを口実に
して豊臣秀頼を招こうとしたが、秀頼はこれ
を「家臣である徳川家が主君の自分に対して
臣従要求をしている」と解釈し固辞した。
 これはかつて、家康が豊臣秀吉からの臣従
要求を拒み続けた時と立場が入れ替わった対
応だった。
 関ヶ原の合戦以後も徳川家は、豊臣家の家
臣として振る舞い、豊臣家恩顧の諸大名との
不和を回避していた。
 二年前の慶長八年(一六〇三)七月には、秀
吉の生前に約束していた秀頼と秀忠の娘、千
との婚儀を行い、家康が秀吉の妹、朝日を正
室として迎え入れたのと逆のことをやった。
しかしその反面、この年の三月に家康は、征
夷大将軍となり、江戸に幕府を開いている。
 これでは豊臣家をないがしろにしていると
思われてもしかたない状況が続いていたのだ。
 家康の後を継ぎ、征夷大将軍となって意気
揚々としている秀忠に、家康は苦笑いして聞
いた。
「秀頼様は今、何歳じゃったかのう」
「確か、十三歳にございます」
「十三か。まだここまで知恵は働くまい。秀
忠は誰の入れ知恵じゃと思う」
「家老の片桐且元あたりかと」
「ほほう。なかなか鋭いのう。将軍になって
ちとは貫禄がでてきたか」
「ははっ。それにしても豊臣家は、秀頼の義
理の父であるわしを侮りおって。父上、これ
は誅伐に値します」
「まあまあ、そうことを荒立てずともよい」
 家康は、六男の松平忠輝を大坂城に派遣す
ることで秀頼の顔を立てた。しかし、波乱の
芽は静かに成長していた。

 家康は、征夷大将軍の地位を秀忠に譲った
といっても、大御所としてなおその権力は絶
大だった。
 こういった体制は、秀吉と秀次の時に混乱
を招いたが、その時の秀吉と秀次は実の親子
ではなかった。その点、家康と秀忠は実の親
子として、一心同体のように息を合わせ、役
割分担をして政務をこなしていた。
 家康は、江戸から京・伏見城にやって来る
と羅山を呼んだ。
「羅山殿は秀頼様をどのように見ておいでじゃ」
「災いの芽にございます」
「なんと。それはまたなぜ」
「はい。秀頼様は今はまだ若く、豊臣家家臣
や恩顧の諸大名の意のままになりましょうが、
いずれその芽は巨木になり、亡き太閤様を偲
ぶほど庶民の期待が高まると思います。そう
なった時、大御所様はどうされるおつもりで
すか」
「そうなれば、秀頼様は関白になり、幕府が
つぶされると申すか」
「そうお考えになられたから、将軍を上様に
お譲りになり、災いの芽を、大御所様自ら摘
もうとされているのではないかと推察しまし
た」
「もしそうだとして、何の大義名分がある」
「秀頼様を摘み取る大義名分はありませんが、
豊臣家を摘み取る大義名分ならあります」
「それは何じゃ」
「先の朝鮮出兵により、わが国と朝鮮国の関
係は、いまだ良好とは申せません。これを良
好にしようと思えば、大きな力を持ち続けて
いる豊臣家の存在は障害となりましょう。朝
鮮出兵の責任は誰にあり、その処罰はどうす
るかは、今も何一つ決まってないのではあり
ませんか。これを大義名分とすれば、豊臣家
恩顧の諸大名も納得せざるおえないのではな
いでしょうか」
「そうか、ではまず朝鮮国との和平を推し進
めれば良いのじゃな」
「さすがわ大御所様。ご明察のとおりにござ
います」
 この時、家康は羅山の非情を知り、羅山は
家康の執念を知った。