2013年7月25日木曜日

学問の限界

 外は急に大雨になり、雷も鳴り始めたので、
集まっていた庶民たちがそそくさと帰りだし
た。
 しばらくして羅山が戻り、ハビアンに言っ
た。
「これ以上論争を続けても私たちに有益なだ
けで、ハビアン殿には何も得るものがないで
しょう。よいですか、私たちは何千年も、こ
の考え方を洗練させて生活してきた。それで
こそ真理なのです。ハビアン殿の言われるこ
とはまだ新しい。洗練されて真理になるには
まだまだ時間がかかるでしょう。それを今す
ぐこの地に広めようとするのは国を乱し、無
駄な血を流すことになります。それはハビア
ン殿も望んでいないはず。ここはひとつ怒り
を静め、今を生きてみてはどうですか。学問
は知識だけ詰め込んでも意味がない。実際に
役に立ってこその学問です」
 この言葉はハビアンだけでなく信澄や貞徳
の心にも響いた。
 人間が空を飛べるようになるのはまだ先の
ことで、異国はその開拓精神で、知識だけが
はるかに先をいっていた。しかし、羅山は大
地に生きる者としての限界を素直に受け入れ
ようとしていた。それは、羅山の中にある小
早川秀詮の生き方でもあった。
 雨がやむのを待って、三人はハビアンに見
送られ、南蛮寺を後にした。
 羅山はハビアンとの論争で、イエズス会の
信者拡大により苦境にあった既存の宗教界か
ら支持されるようになり、羅山の幕府仕官に
難色を示していた相国寺の承兌長老、円光寺
の元佶長老らの不満も解消した。しかしこの
頃、徳川家では別の問題が起きていた。
 秀忠の長男、竹千代が高熱を出したのだ。
 先に秀忠の正室、江与は、次男の国松を産
み、乳母を決めず、自分で育てるという前例
のない行動にでた。そのため、周りからは将
来、竹千代との間で家督争いが起きるのでは
ないかと心配されていた。その矢先の竹千代
の病気は、色々な憶測を呼んだ。
 秀忠は、その悪い噂を打ち消そうと、多数
の侍医に診せ、祈祷までしたが、竹千代の病
状は一進一退を繰り返していた。
 そんなことが起きているとは知らない羅山
は、いつものように伏見城にある家康所蔵の
書物を閲覧していた。そこへ家康が青ざめた
顔をしてやって来た。
「羅山殿、竹千代が高熱で苦しんでおる。麻
黄湯やわしの煎じた薬を色々試したが回復の
兆しがない。何かよい漢方薬はないか」
 家康は、自ら薬草を調合するほど薬には詳
しかったが、この時は狼狽して何も考えられ
ないといった様子だった。
「竹千代様が高熱を出されているのですか。
それは一大事。しかし、幼子に薬はかえって
毒になることもあります。また、何から生じ
た熱なのか……」
 羅山はそう言いながら、書棚にあった「本
草蒙筌」「本草綱目」「神王本草経」などを
素早く探し出して調べた。
「牛黄は試されましたか」
「ごおう。いやそのような薬草は聞いたこと
がない」
「薬草ではありません。牛の体内から取り出
したものですが、めったに見つからないもの
です」
「そのようなものがあるのか。しかし、すぐ
に手に入らんのではどうしようもない」
「私に心当たりがありますので、手に入るか
すぐに調べ、あればお届けします。御免」
 羅山は家康の気持ちを察して、すぐに城を
出ると屋敷に帰り、弟子の菅得庵を呼んだ。
「得庵、将軍のお子の竹千代様が高熱を出さ
れているらしい。すぐに牛黄や高熱に効きそ
うな薬材を取り寄せてもらいたい」
「牛黄は貴重ですが、幼子なら少量で足りま
すね。分かりました」
「私はこれから行く所がある。得庵は手に入
れたら直接、大御所様の所へ持って行き、調
合の仕方を伝えよ」
「それより薬にした物のほうが良いのでは」
「いや、大御所様が調合することに意味があ
る。大御所様は薬について詳しいから心配な
い」
「分かりました」
 二人はすぐに別れ、得庵は恩師の曲直瀬玄
朔の診療所に向かい、羅山は兄の木下長嘯子
の屋敷に向かった。
 羅山が長嘯子の屋敷に行くと、それを待ち
かねていたように長嘯子が出迎えた。
「待っておったぞ羅山。二日前に福の使者と
名乗る者が、手紙を置いて行きおった。竹千
代様が高熱を出したと言っていたが、そんな
に深刻なのか」
「そのことは、その手紙に書いてあるのでしょ
う」
 羅山は、長嘯子から受け取った手紙を読ん
で、時々笑みもこぼれた。
「そんなに深刻そうではないな」
「いえいえ、かなり心配は心配です。竹千代
様の高熱が、ただの病気なら福のところの子
らも同じ年頃に熱を出して治っているので心
配はないということです。しかし、もし病気
でないとしたら……」