2013年7月14日日曜日

春の訪れ

 秀詮は林信勝として、儒学を中心としたあ
らゆる書物を読破する日々が続いた。
 弟の信澄はその側につきっきりで、信勝の
質問に答え、漢文の難しい文章を詳細に解説
した。

 慶長十年(一六〇五)四月

 京にもようやく、春の湿った風が吹くよう
になった。
 陽射しも暖かく、遠くで鶯の鳴く声が人の
心をうきうきさせていた。
 五年前に起きた、国を二分する関ヶ原の合
戦の混乱は落ち着き、その勝利で征夷大将軍
となった徳川家康が、京での居城としていた
二条城に姿を見せた。
 長い廊下を謁見の間に向かう家康の足取り
は重い。それは、六十四歳という高齢のせい
ではなく、今から会う人物が、藤原惺窩から
推薦された林羅山という青年だったからだ。
 藤原惺窩は冷泉為純の二男で、藤原定家十
二世の孫でもある。
 この頃の惺窩は、明や朝鮮から伝わる書物
をひもとき、儒学や帝王学を説いた知の巨人
との名声が高まり、後陽成天皇や家康に大陸
から伝わる古典を進講していた。また、門下
には多数の公家や大名がいた。
 今は亡き、石田三成も惺窩に心酔していた
一人だった。
 家康は、惺窩に再三、仕官を要請したが、
惺窩は受け入れず、代わりに林信勝に羅山と
いう号を与え、家康に推薦したのだ。
 以前、二十一歳の信勝(今は弟の信澄)が、
朝廷の許可を得ず儒学の講義を開いたことが
あり、それを公家の清原秀賢が告訴し、五大
老の一人だった家康は、初めてその名を知っ
た。
 この時の家康は「若者が学問を熱心に広め
ようとしていることを、とやかく言うべきで
はない」と、秀賢の告訴をとりあわなかった。
しかし、幕府に仕官するとなると話は別で、
惺窩に比べればはるかに格下で、しかも町人
の羅山を受け入れる気にはなれなかった。
 家康が羅山の仕官に難色を示していること
を知った惺窩は、門人で家康の家臣、城昌茂
に、羅山の仕官への取り成しを頼んだ。
 家康は、惺窩の推薦をむげに断るわけにも
いかず、とりあえず会うことにしたのだった。
 謁見の間に平伏して待っている羅山は、惺
窩がいつも着ている深衣と道服を真似て、新
調した装束を着ていた。
 家康が着座して面を上げるように促すと、
羅山はゆっくりと頭を上げ、能面のように無
表情の顔を家康に見せた。
「お、お前は」
 家康は、表情こそ変えなかったが、心臓を
締め付けられるような恐怖を覚えて、とっさ
に声が出た。
 羅山の人相は、時が立ち別人に見えてはい
たが、その目はまさしく死んだはずの小早川
秀詮だった。
 関ヶ原の合戦で、島津の部隊を追撃する時、
家康の眼前を通過して行く秀秋(当時の名)
の目。その時と同じように、まるで獲物を捉
えた狼のように鋭い目をしていた。
「秀秋、そちは秀秋じゃないか」
 家康は、羅山に秀秋の面影を見つけるかの
ように目を見開いた。それでも無表情を続け
ている羅山は、平然と応えた。
「御恐れながら、その名で呼ばれるのは迷惑
にございます。私は林信勝。今は、惺窩先生
からいただいた号、羅山を名乗っています。
秀秋については、惺窩先生から聞いておりま
すが、狂い死んだとのこと。他人の空似とは
申せ、不吉にございます」
「羅山」
(羅山、羅山……)
 家康は羅山という名に、何かたとえようの
ない違和感があった。しかし、とっさに取り
つくろうように感情をあらわにした。
「無礼であるぞ。秀秋殿は関ヶ原の合戦でわ
しを裏切った大谷吉継を倒し、あわや大敗北
するところを助けてくれた命の恩人。また、
わしが与えた備前、美作を見事復興させた、
才知ある御仁じゃ」
「これは意外。御殿様が、そこまで秀秋様を
高く評価されていたとは。惺窩先生からは、
『秀秋様の名を口にすると御殿様が不快に思
うから、くれぐれも口にするな』と日頃言わ
れておりました。無礼の段、平にお許しくだ
さい」
「いや、それは違うぞ。惺窩先生は、秀秋殿
の名を口にすると、わしが辛い思いをすると
察して、そう言ったのじゃろう。わしは今で
も秀秋殿を早よう喪った事を残念に思うてお
る。そなたが秀秋殿に似ておることを誇りに
思え」
「ははっ」
「ところでそなたの仕官の件じゃが。今すぐ
は決めかねる。後日改めて、家臣と供にそな
たの力量を見定めたい。それまで待て。以上
じゃ」
「はっ」
 こうして、家康と羅山の初めての謁見は終
わった。