2013年7月21日日曜日

菅得庵

 羅山のもとには、弟子入りを希望する者が
多く集まるようになっていた。それは、先に
家康に呼ばれ、舟橋秀賢、相国寺の承兌長老
円光寺の元佶長老との問答をした時のことが
評判となっていたからだ。
 集まった者の中には菅得庵もいた。
 得庵は、以前、岡山に住み、備前と美作の
領主だった小早川秀詮が亡くなったのは、毒
殺ではないかとの噂が流れた時から、医学に
興味を持つようになり、二十四歳になった慶
長九年(一六〇四)に岡山から京にやって来
て、名医と呼ばれるようになっていた曲直瀬
玄朔に弟子入りした。
 そこで秀詮の死の真相を調べていくうちに、
秀詮を毒殺から救った医者がいるらしいこと
を知り、それが自分の師である玄朔ではない
かと思い至った。
「先生、私は父母から、秀詮様に大変な恩義
を受けたことをよく聞かされました。その大
恩人を毒殺から救った医者がいたらしいと。
もしや、それは先生ではないかと」
「いや、それはわしではない。しかし、まっ
たくの嘘でもない。さるお方の指示で調合し
た解毒薬により、秀詮様は回復された。わし
はその橋渡しをしたまでだ」
「そうでしたか。では、秀詮様は本当に生き
ていらっしゃるのですね」
「生きておいでだ」
「先生、私はぜひ秀詮様の側にお仕えし、父
母の恩を返したいと思います。どちらにおい
でなのですか」
「会っても、お仕えすることは叶わんであろ
う。秀詮様はもうそのようなご身分ではない。
しかし、お前なら何かの役に立つかもしれん。
会うだけ会ってみるがよい」
 こうした経緯から得庵は、羅山のもとを訪
れたのだ。
「そなたが玄朔先生の弟子の菅得庵か」
 羅山は、懐かしい人にあうような眼差しで、
得庵を迎えた。
「はい。羅山先生は覚えておいでではないで
しょうが、私の父母は岡山で、死ぬ瀬戸際ま
で追い詰められた生活をしておりました。そ
こに小早川秀詮様が領主としておいでになり、
仕事を与えられて命を救われたのです。私は
そのご恩をお返しに参りました。どうか側に
置いてください」
「それは私が秀詮の時のこと。今は生まれ変
わった。だからもう恩を感じることはない。
それより、そなたに聞きたいことがある。今
の岡山はどうなっておるのか。領民は達者か」
「それはもう恨んでおります。あっ、これは
失礼しました。悪い意味ではございません。
せっかく良くなりかけた領地を残して先立た
れたことで悔しがっておるのです。しかし、
それが功を奏して、秀詮様の後においでになっ
たご領主は楽に治めております」
「そうか、それはひとまず安堵した」
「あのう、それで私のことは」
「おお、今の私は側に仕える者など置けぬ身
分だから、私の弟子にでもなるか」
「なります。うれしゅうございます」
 羅山は、得庵が自分より一つ年上と分かり、
心強い味方を得たことに喜んだ。そして、師
弟を超えて何かと相談しあい、老僧の乗阿を
招いた時も、源氏物語の講義を供に聴いた。
 幕府への仕官はまだ出来なかったが、それ
でも充実した日々を過ごしていた。