2013年7月9日火曜日

毛利家へ

 毛利家は関ヶ原の合戦で敗軍の将にされ、
安芸、周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐
の七ヵ国、百二十万石の大大名から改易され
そうになったが、東軍に内通して毛利家を合
戦に参加させなかった吉川広家が、家康に懇
願して、自分の所領として与えられた周防、
長門二カ国の三十万石を、なんとか毛利家の
所領として、かろうじて改易をまぬがれた状
態だった。
 今、毛利輝元は、家督を六歳の秀就に譲り、
自らは隠居の身となったが、大坂に留め置か
れていた。
 このような状況の中、稲葉正成が長門の毛
利家を訪れても歓迎されるはずはなかった。
 ようやく会うことができたのは幼い秀就の
後見人となっていた毛利秀元だった。
「なに用か」
 全てを拒否するようにはき捨てた秀元の言
葉に、正成は結論から話してみることにした。
「はっ。わが殿は、小早川の名を返上したい
と考えております」
「なんと」
「ご存知のように、わが殿は、備前、美作五
十一万石の加増となりました。その領地は荒
廃しておりましたが、岡山城を修築し、以前
の二倍の外堀をわずか二十日間で完成させ、
検地の実施、寺社の復興、道の改修、農地の
整備などをおこない、早急に復興させました。
これはひとえに、今は亡き、隆景様のご家臣
の働きによるものです。殿はそのご恩に報い
るため、いずれは小早川の名を返上したいと、
常日頃考えておられたのです」
 この時、正成は、ある秘策を思いつき、とっ
さに真実を打ち明けることにした。
「今、殿は、何者かに毒を盛られ体調を崩し
ております」
「なに、それは誠か。……確かなのか」
「はい。誠のことです。嘘偽りではございま
せん。幸いと申しますか、殿には世継ぎがお
りません。そこで、いっそこのまま死のうか
と」
「待て待て、毒を盛られていると分かってい
るのなら治療はできんのか」
「無理にございます。仮に治療できたとして、
この世に生きる場所などありましょうか」
「しかし、死を受け入れるとは」
「わが殿はまた蘇ります」
「……」
「いずれ名を変え、身分を変えて徳川家に入
られます。そうすれば毛利家のお役に立てる
のではないでしょうか」
「そのようなことができるのか。そなたの話
は突拍子もなく信じがたい」
「申し訳ございません。しかし、それしか豊
臣家の縁者である殿の生きる術はありません。
虎穴に入らずんば虎児を得ずと申します。徳
川家の懐に入ることこそ、安全と考えておい
でです」
「それで、我らになにをしろというのだ」
「殿が亡くなりました後、残された家臣のい
くらかを、お引き受けください。きっとお役
に立つと思います」
「それは、そうしてやりたいが、われらは減
封されて、今も家臣を減らすことで悩んでお
る」
 正成は、この時とばかりに、まだ残ってい
た石田三成の軍資金を持ち出した。
「存じております。わが家臣にはいくらか持
参金を持たせます。十分にお役に立つ持参金
です。しかし、家臣としてではなくてもよい
のです。武士の身分を捨ててもりっぱに生き
ていける者が多くいます。荒廃した領地を復
興させた者たちです。どうかお考えください」
 秀元は、しばらく天井を見上げて考え込ん
でいたが、深く息を吸い、意を決した。
「そこまでの覚悟を決めておるのなら、考え
てみよう。思えば、秀秋殿のお働きがあった
ればこそ、当家が改易を免れたのかもしれん
からな」
「ははっ、ありがたき幸せ。なお、このこと
はくれぐれもご内密に」
 正成は深々と頭を下げ、この大役を成し遂
げた。